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シンポジウム
ート=次の時代を創ってゆく「価値形態」
ゲスト:後藤繁雄氏

日時:7月2日(金) 16:00〜
※本イベントは修了しました。ご来場有り難うございました。

場所:第0研究室 (東京芸術大学取手校地専門教育棟内)

〈シンポジウム再録〉

《自己紹介》
 僕は30年くらい編集の仕事をしているんですが、いろんなタイプの本をつくってきました。基本はテキストとヴィジュアルを組み合わせて、本をつくるのが、もともとの職業です。
 今日は、「価値」の話がテーマになっています。「編集」の仕事ですから、作家やアーチストなどいろんな人を色々組み合わせて、いかに効果的につくるか、価値を生むかというのをやっていました。そのうちに「展覧会」を企画、構成したり、情報を立体的に見せる仕事をするようになったり、広告の仕事もしていますから、メッセージを効果的に伝えるにはどうすればいいか、他と違う風にするにはどうすればいいかというのをずっと考えているんです。もともと油絵を描いたり、映画を撮ったりもしていましたから、最近では、アート関係の仕事も多くなって、展覧会の企画やキュレーションもずいぶんやるようになりました。
 キリンプラザ大阪というところのコミッティーのメンバーもやっていて、いろんなアートの賞の審査員をやったり、去年からは京都造形大学にASP(芸術表現・アートプロデュース)学科がスタートしたのでその学科長になったりして、キュレーションやプロデュースを学生に教えるようになっています。

《アーティストの戦略》
 まず、作品がある。作品はあくまで作家が頑張ってつくったものです。でも作品をつくるだけでは、世の中の人は認めてくれなかったり、評価が定まらなかったりする。そこがつくっている人の悩みでもあるわけです。でも、「自分をプロデュースするにはどうしたらいいか」というのは、作家の視点だけでは、なかなかでてこないと思います。今日はそういうことをお話しして、ヒントにしていただければいいなと思います。
 わたしの仕事は、電話とペンがあればどうにかなる仕事です。取材して文章にしたり、企画書を書いたり、電話で伝えたりして、新しい企画を立ちあげていく。ということは特別な技術があるわけではないわけだから、「不定型な仕事」をずっとやっているわけです。昔は油絵を描いていて、作品が自分の代わりにアピールしてくれる方が楽だと思っていたんですが、ある時、紙と鉛筆でつくる方が面白いんじゃないかと思ったんですね。そこから、ある意味ではコンセプチュアル・アート、概念で仕事をしていくことにもなるわけです。今の芸術の形態は、一つのメディアに縛られない人が多い。場合によっては言葉で表現する人もいる。アートは不定型なものに向かっているわけです。なのでどちらにしても、概念工事、頭脳プレーはどうしても不可欠になります。
 それは今に始まったことではなくて、アメリカの1940年代からずっと続いていることです。だからジャスパー・ジョーンズとか、ラウシェンバーグとかの多くの作品は、例えばジョーンズなんか現在70歳過ぎてますけど、現存している作家では作品の値段が一番高くなってしまって何10億円もするわけです。スイスのバーゼルでは毎年、世界最大のアートフェアがあって、世界中のコンテンポラリー・ギャラリーが自分のところのアーティストの売買を行うんですが、ここは美術品を「商品」としてどのように流通させるか、という「価値決め」の場です。評論家が作品の価値を決定しているのか、観客なのか、マーケットなのか。アートという価値決めの仕掛けはどうなっているのか、というのが重要なんですが、一方ではそういうところにアーティストは拒否反応をもつし、知りたくないということもあると思うんです。社会の事情で自分の作品の値段が決められていくことが不愉快な人もたくさんいるわけですね。
 ところがアメリカを例にあげると、先ほど言ったみたいに、4、50年前から、ギャラリストと評論家とメディアがどうやって作品を高いものにしてきたかという歴史があるわけです。だから、村上隆さんたちがやっている「芸術システム」も急に始まったわけではないんです。
 つくる方としても「プロデュースということ」は必要だと思うと同時に、イヤだなあと思う気持ちも当然あるわけです。どうすればいいのかというのは大きな問題だと思います。僕みたいに、レビューを書いたり企画をしたりしている人間も、アートの値段を上げていく付録物のような存在じゃないかと思ってがっくりするときもあるんですが、反面、自分がいいと思った新人たちをどのような形でメディアに載せていくかというカラクリもよく知っているので、いい作品をいろんな人に「いい」と言わせることも重要になるわけです。10人の人間がいて、いきなり全員にいいと言わせるのは難しいけど、そのうち3人にいいって言わせれば、あとの人は、その意見によって動いていくことが日本ではよくあります。ということは、はじめの3人にどのような点においていいって言わせるかが非常に重要になってくるわけですね。

《価値観のトレーニング》
 つまらないものを流行らせても意味がなありません。だから僕は、価値というものがどういうふうに存在しているのかを、常に考えています。例えば、先週も授業をやってくれと言われて、東京藝大の取手にはじめて来たんですが、ここは離れているじゃないですか。その遠いところで先端芸術を生み出そうとしている。どうやって組織的に環境をつくっているのかに非常に興味があって、一度見てやろうと思って来てみたんです。
 というのも、価値をつくるやり方はいろいろあります。作品をつくるときに、「観客をこういう気持ちにさせたい」と思ってつくる人もいるし、「自分がつくった作品を世界でいちばん愛している」迷いがない人もいるでしょう。こうした離れた場所でやるというのは、「遠くても流行るお店」に近いと思います。出版物をつくるとすると、まずいちばん影響力があるのは発行部数ですね。その一方で発行部数が少ないアートブックがある。でもこれは「レアな力」があったり、「好きにさせる力」があると、数では勝てないけれど人々に深い印象を与えることがあります。そうすると、作戦としてはどっちを選択するかが大きな課題になる。
 また、タレントみたいに、表現作品を媒介としないでストレートにやってゆく作戦もあると思います。一つの価値をつくる場合に、たくさんの人に最大公約数的に好かれて、理解してもらう方向でやっていく人、反対に、差をつくる、他の人と違うという所に価値があるという方向に考える人たちもいるわけです。
 こうやってたくさんのポートフォリオ・ブックが並んでいると、自分をどう差別化していこうかと考えている人がたくさんいるというのが分かります。そうすると、「異質性」つまり他の人とどのようにちがったものとしてつくっていくかという、価値観があるわけですから、自分が表現者として評価される上で、「最終の仕上がりイメージ」をどういう所に置いているか、こだわりの強い職人的にみられたいのか、離れていても流行るお店になりたいのか、一般の人に入っていきたいのか。そういうことを考えるトレーニングは、アーティストを志す人なら最低あった方がいいと思うんですよ。

《「何もない」という価値》
 我々は消費社会の中で仕事をせざるを得ないので、純粋芸術をつくっていても、観客がいたり、最終的にはメディアで扱われたり、最終的に価値が定められていく。ただ、商品の流通の価値システムだけを意識して創作をすればいいかというと、そうではないわけです。全て商品だという中で作品をつくると、差別化ができない、同じに扱われてしまう。だからこそ、商品的な価値の体系にのっとらないものを積極的につくっていった方が、最終的には勝ち目がある時もあるんです。
 例えば、仏教というのは面白くて、密教は人間にある潜在的な力を拡張し、超人化させるコンセプトなんですが、それに対して禅というのは「無」ということを言います。何もない。禅問答なんてのはいちばん奇妙なコミュニケーションをやっているわけです。「悟り」というのは、座禅を組んでいる時に、急にカラスがばたばた飛んでいってそれで悟ったとか、ある意味ではナンセンスなことをまじめにやってゆくシステムです。いま行われている学校教育のスタイルの中にはこんな発想はありませんよね。ところが、「真ん中に何もない」という価値観を創出した場合に、たとえばそれが武士の心の状態としてすばらしいということになると、戦国時代の大名がそれまで乞食のような生活をしていた禅の行者に富を寄進して、お寺を建てる。もともと何もないものをコアにしているのに、外観は巨大化してゆく。これは非常に興味深いパラドックスですよね。
 そうやって、何もないというところで高い価値をつくっていったアーティストもいて、それは例えば、デュシャンであったり、ウォーホルであったり、ジョーンズであったりする。そういう人たちは、自分では答を出さずに、観客や社会に回答を求めて、周辺で言説を発達させて、自分の作品の価値を上げていく。芸術は現代において唯一そういうことが可能な分野になっているわけです。数年前はまだ高くなかった村上さんや奈良さんの作品がどうしてあんなに高くなったか。これは物理法則ではなくて、操作しているわけでもなくて、相互作用的にそうなっていく。これはある意味で株と一緒です。「値段が上がりそうだ」というのをみんながどんどん買っていく。これはイヤな話しだと思う人もたくさんいるけど、村上さんはこのカラクリをよく知った上で、どういう表現が成り立つかというのを本気でやっていると思うんです。また、反対の人たちは、この事態を反面教師的にどう捕らえればいいかと考えていけばよいと思います。

《共感のツボ》
 僕は編集者的には、まだそんなにブレイクする前に、その人の作品集を一番最初につくるというのを生き甲斐に思っているところがあります。最初に見つけて、それで評判が出て、ディーラーがくっつくところまでもってゆく。そのときに、共感を生んでいくツボがあると思います。ある作品を人がいいと思う理由はたくさんあって、例えば部数が多い雑誌にたくさん載って話題になっているとかですね。そういう場合、多くの人は簡単に「いい」と思ってしまいます。部数とかで知らない間に説得されてるわけです。
 昔のマーケティングでは、「少数だけれど感覚的なエリート」がいいと思っているものがだんだん大衆に浸透していく。でも今はこういうマーケティング・モデルが通用しなくなっていて、雑誌でも、一ついいものが現れると、同じような記事がすぐ現れてすぐフラットになる。となると、「とんがった」という言い方がもはや成立しなくなってくる。
 実際には、意識の高い人たちが普通の会社員として働いているという現実があるわけですから、芸術家も、レアで特権的な場所にいるという時代ではなくなっているんですね。でも結局、「説得の時代」は終わっていると僕は思います。マスコミは人間の全体像を正しく伝えるという機能をもはや果たしていません。必要なところだけを利用してマスコミはストーリーをつくっている。なので、マスコミ不信が強い。その一方で自分なりのネットワークなりコミュニティなりをつくって発信していけばいいと思うんですけが、それはそれで内輪でやっているだけなので、今度はマスターベーションじゃないか、と言われてしまう。
 「説得」ではなく、どうすればいいかとなると、「共感」というやりかたになるわけです。共感のツボというのは必ずあって、人の中には、否定しがたい感覚というのは必ずあるわけです。花を踏んづけるというのはしづらいでしょ?子犬を拳銃で撃つというのはしづらいじゃないですか。例えば、そういう感覚のツボを利用して、それを表現の根底にしている人はたくさんいるわけです。
 僕は写真集の編集も数多くやってきましたが、写真というのは心理的なものです。鏡ではないが、鏡のような効果があります。人はそれを見たときに、自分を読み取ろうとするので、写真は心理的な操作をしていく芸術なわけです。そういうところではある種の「微妙さがツボ」になっていく。説得型じゃなくて共感型の芸術が、今の特徴になっている。その典型的なのが奈良美智くんだったりする。
 余談になりますが、写真のオリジナリティについての考え方は、それまでやっていた絵画などの主体性とはずいぶん遠いところにあるんです。僕は写真家とは、表現者として考えるよりも、人々の心理に潜在的にあるものを結晶化させるアーティストだと思います。一つの表現が現れたときに、「これは自分も知っている」と、確かに心の中にあったものを代わりに表現してくれているものが多くて、HIROMIXなどの写真は広がっていったと思います。奈良くんの作品も同じような感覚、力があるんだと思います。

《根底にある法則》
 ただし、美術のそういう価値形態が全てだとは思いません。例えば、価値形態を考えたときに、「否定しがたいもの」ということがある。古くは「黄金数」とか、誰が見ても美しいものは、数学的に規定されているところがあるんです。「普遍」というものがあって、宇宙の本質と関係している数字があるんです。これはラカンがよく言っていたことですね。そういうものに触れるということがあります。これは芸術のスタートとも関係があって、人がどうして芸術を求めたかというと、「美」ということがついて回るじゃないですか。美というのは「素数的なもの」と関係しているんでしょう。今は「全ての美は乱調にあり」とか、「不揃いなところに美を探す」ということにスライドしてきてはいるけど、もう一度原点に戻って、「否定しがたい美とは何か」と考えるのも重要だと思います。消費社会となって、全てが均質化されて相対化されている世の中では、根源に戻るというのも、価値形態をつくっていくヒントになると思います。しかし、いずれにせよトータルとしては、芸術というのは、「不定型な新しい価値観」、「今まで存在していなかったもの」を生みだしていくことができなければ、勝ち目がないわけですが。

《わずかな差が決定的な差となる》
 今の時代というのは、「大きな差」を生み出すのは困難な時代ですから、「小さな差」が決定的な差になる。小さな差に厳密であれば、それが大きなクリエイションということになるわけです。
 また写真の話ですが、写真の歴史というのはだいたい180年くらいで、その短い間にありとあらゆることが一度に行われて、世界中にメディアが広がったという滅茶苦茶なメディアです。ということは、今、写真をやろうとする人も、初期にやった人たちから、時間的には、そんなに離れていないわけですね。ところがその間にいろんなことがすでにやられているので、そうするとすべて「真似」だって批判されるわけだけど、違う人がやっているんだから違う作品だということがどうして主張できないのか。これは絵画でやっているオリジナリティのトラウマ、あくまで表現とは自己表現であるという考え方が写真にもたらされているにすぎないわけです。だから僕は「似ているんだけど、やっている人が違うんだから」と、ディレクションをしていくわけです。我々は、どんな手を使っても構わないから、今までにないものを生み出すという、果てしない情熱が必要なんじゃないかと思います。
 あと、こういうこともよくいいます。自分の仕事は、表現者といえば表現者なんですが、僕は「自分」より「世界」の方が面白いと思っている人間なんです。それは才能が好きだということもありますし、どんな悲惨な世であっても、すばらしい才能さえ出てくればなんとかできると楽観的に思ってる。
 戦争とか世の中の悲劇に対して「表現は無力だ」と皆言いますが、どういう形でもいいから、芸術的なものしか今の世の中を救ってくものはないだろう、という直感が僕にはすごくあります。だからここでこういうプロジェクトを若い人がやっていくということも、先を読んで「こういう企画は大抵こういう運命をたどるよ」と言うのではなくて、上手い励まし方をしていけば、過去になかったものに成長しうるのではないかと思うんですね。
 僕はよく写真家と仕事をするんですが、リチャード・アヴェドンだったら1日1千万くらいのギャラがかかりますが、若いカメラマンだったら5万円でも10万円でもいいよという人はいっぱいいるでしょう。我々が仕事をするときに、すでに名声が決まっている人と組んで影響力のあるものをつくっていくやり方もありますが、無名の人を使ってどうすれば歴史に残るものができるか、そのことを発明していくやり方もあるわけです。ロバート・フランクと一緒に仕事をするのは可能だし、やりたいとは思うけど、僕は、ロバート・フランクが無名時代に、「お前はいい、一緒に仕事をしよう」と言った人間になりたいんです。それはある種のファンタジーと受け取られてしまうかも知れませんが、芸術をやる以上は、自分自身の行為がファンタジーであるとかSFであるとか、「自分自身をイメージすること」がすごく重要だと思います。不定形といえどもそれに適確な価値を与え、認識させていけば、自分のやりたいことができると確信するんです。
 そのときに大切なのは、「負けないようにすること」。いきなり大きく勝とうとしても難しいと思います。だけど、食えないからって、美術の先生になって、たまに美術の友人と銀座のギャラリーで個展を開く、それを一年のサイクルにする、これがほとんど世の中なんです。その人たちと、『美術手帖』に扱われたりする人の差は何でしょう。そのことをいつも考えるんです。いっぱいアーティストになりたい人はいるのに、何で限られた人たちだけがでてくるのか。それは「微妙な差」です。その人がもっている「イメージの微妙な差」が、何か決定的な差になってゆくんです。

《将来のヴィジョン》
 自分がどう評価されるのが幸せかと考えると、生きている間に、東京都現代美術館みたいなところで展覧会ができれば仕上がりなのか、そういうことを考えるのは生臭い話しだけど、やっぱり必要です。
 これも画家の人がよく言う話だけど、「やっぱり画家は1万枚描かないと絵描きとして残れない」、これはピカソが1万枚描いたと言ったのが起源になっていて、芸術家のオブセッションの一つだと思います。僕が最もリスペクトするアーティストに大竹伸朗がいます。時々ふたりで酒を飲むと、「俺は30年間やってるんだけど、なんで評価されないんだ」って、朝まで酒になるんですが、「1万枚描いた?」と僕が聞くと「1万枚描いたぜ」ってことになる。それでは彼は、何万枚描けば満足するのか。彼はいつも不完全燃焼で、煙が出るタービンのようにつくってます。でも、ほれぼれするんですよ。大竹は自作がすべて入った1万ページの本をつくったって、きっと満足しないでしょう。彼は彼なりに、1万枚つくれるだけの努力をして、30年間頑張って、負けないようにしてきた。いつも煙が出ている状態ですけど、その負けないようにやってきたことは最後に大きな差となって彼を偉大なアーティストにしてしまうと思います。
 生きている間に発見されるかされないか、はメディアの構造にもよるわけですけど、自分も偉そうにはしたくないんだけど、年をとってくると偉そうな人間になっちゃっていて、作品を見て下さいって言われると、正直困る人がいるんです(笑)。「僕がこの人にできることは何だろう」って考えて、本当にいい人は「お前いいからすぐ展覧会やれよ」ってことになるんだけど、僕ができるのは、僕以外に目利きというか、評価のできる連中を紹介しますね。5人くらいがいいって言えば本当にいいんだから、勝負に出るという回路になっています。でも、反対に、困ったなと思うものもたくさんあるわけですよ。10年20年やり続けた時に、はたして、これは形になるんだろうかと思うものもたくさんあるわけです。僕はできるだけ責任を負いたいから、できるだけたくさんの、過去のものを見たりして、訓練だけはしているんですが、僕のやっていることはアマチュアといえばアマチュアだと思います。ただ、自分のことをプロだと思ってなめている連中よりは「うるさいアマチュア」でいたいなと切実に思っています。

《クリエイションとサヴァイヴァル》
 今日お話しした、価値の決め方とかの話しはすごく正直に話しています。芸術の価値の決め方というのは、すごく少ない人間が決めています。東京でも300人くらいから1000人くらいの人間が、これはいいとか悪いとかを決めて、それをメディアの中でコントロールしているでしょう。
 一人で趣味でやって、私はそれでいいんだっていう人はこういう場所には来ないと思いますが、探していたり、もがいていたりする人は、考えなきゃいけないと思います。ぼんやりやっていて、人が見つけてくれるというのはまずないですね。僕がノミネーターのメンバーをしている、キリンのアワード(来年からは「キリンアートプロジェクト」と名前をかえて再スタート)というのは大体千点くらいの応募があって、全部見るわけです。3日間とかで吐き気がするくらい見るわけです。でも、ぱっと見るとどういうものか分かる。これはもう職能になっていますね。一応最後まで丁寧に見るんですけど、それでもダメなのはやっぱりダメだな、と言えるわけです。
 バーゼルのアートフェアには世界中からギャラリーが来ています。別に僕は自身がコレクションをしているわけじゃないんですが、だまされたくないので、自分の目で見て、どういう傾向か、どういう風に流通しているかを見たいと思って出かけます。
 例えば写真家の杉本博司さんは現代アートでいちばん売れている一人だと思いますが、彼は立教の経済の出身で、米国で骨董商をしていたんです。美術品がどうやって美術館に入っていくかというプロセスをよく知っている人なんですね。杉本さんは、自分が納入する骨董品のためのポートフォリオをつくるんです。古美術を写真に撮り、カタログにするんですけど、それが杉本さんの写真集にもなってゆく。そこで、一枚の写真がキュレーターにどう評価されるかを考えて、美術品としてのクオリティを達成すればいいかを学習していったんですね。
 ドイツ系の写真家の作品は、建築物を撮っていて、プリントもでかいんですけど、バーゼルに行くと圧倒的に売られています。ここ20年くらいの間に、写真は、写真を美術品にする方法を発明したんですが、それを発明したのがベッヒャー・シューレであり杉本博司であったりするわけです。あいかわらず、写真は報道とかプライベート・フォトとかで、それでよいものがアートになるとか思われていますが、もはや根本的に発想が違います。ある種の概念構築のトレーニングをしなければ、やっていけないということは明らかです。だからこそ、やっぱりトマス・ルフとかは値段は絶対下がらないんだなあということを僕はバーゼルで痛感しましたね。
 ウォーホルが、自分が描かなくて、ファクトリーのメンバーにシルクスクリーンでつくらせて、自分という主体性を消去しつつも一番高い値段が出るようにしたのと同じように、ドイツのデュッセルドルフの大学のベッヒャーのゼミが、写真を芸術にする方法を発明したんですが、それが今芸術の価値基準の決め方のベーシックにあるんです。当然批評家たちもそういうことを知った上で批評しなければ、猿回しの猿みたいなもんですね。
 これほど消費が進んだ世の中では、無垢なままでいるというのは不可能だと思います。だから創造力とサヴァイヴァルというのがリンクしている時代になっていて、自分が生き残ることと、自分が創造することを結びつけて考える癖をつけた方がいいと思います。勝手なことを言いましたが、アートと価値についてのアウトラインをお話ししました。

《質疑応答》
質問:いまこちらのスタッフされている方と、音楽と美術のコラボレーションというのを企画しておりまして、手当たり次第にいろんなものを探しているんですが、後藤さんの方から「これは!」というのを紹介して頂けたらと思いまして。
後藤:音楽イベントですか。僕も学校で、学生たちが主体になったアートプロジェクトルーム「ARTZONE」運営というのをやっているのですが、「展覧会場」というリアルワールドもあれば、物質的ではないメディアも「空間」だと思っています。「音楽の空間」というのは不定形で面白いじゃないですか。うちの学生に音楽のイベントを考えろと言うと、いろいろ考えてくるわけです。僕は意地悪だから「何が勝ち目がある?」と聞くんですが、例えば、お客が1人もいなくても30人いたら30人ともが音を出していたら、これはイベントとして失敗とは言わないでしょう。つまり、全員がパフォーマンスをしてお互いの音を聞いているわけだから。そういう風にしていけば、失敗というのはなくなるわけです。
 それから、どれが面白かったかというと、ボアダムズというバンドがあるんですが、新宿のリキッド・ルームで聞いたときにものすごい大音量で、僕は左右の耳のバランスが悪くて音の釣り合いがとれていない場所だと船酔いみたいになるんですが、そこで気持ち悪くなって貧血みたいに床に倒れたんですね。それでもその圧倒的な音量というのが、ある種快感なわけですよ。そういう風に、理屈で説得するんじゃなくて、「これすげえよ!」みたいに圧倒的に、官能的に迫ってくるものの方が評価が高いんです。…これ、全然答えになってないですね(笑)

質問:途中で後藤さんが、たくさんいる若者の中から出てくるのはほんの少しだけど、その差はわずかだっておっしゃいましたが、杉本さんの経歴はかなり特殊だと思うし、後藤さんが忙しい中来て頂いて、こうして講演ができてしまうということは凄いと思って聞いていて、、やはり差を感じてしまうんですが。
後藤:それは結局、人間は平等に生まれてきていないということです(笑)。平等ではない上に微妙な差を生み出すというのが重要なんですよ。これからはやりたい奴がやって、やらない奴が消える、そういうはっきりした状況でしょう。

質問:アートってお金になるんですか。
後藤:なる。なるようにすればいい。
質問:どうやってなるんですか。
後藤:だから、高く売るか、欲しい気持にさせるか。自分のアイディアだけをアートだって売ったりすればいい。はじめに「俺ってアーティストだから」とか言うといいと思う。(笑)これ全て自称でいいでしょう。
質問:こっぱずかしいんですけど。
後藤:いや、恥ずかしがってたら僕だってこんなところでしゃべれないよ。それと同じだよ。こういう役だと思って、自分が入っちゃえばいい。アートで食おうと思えばいい。みんな、アートで食いましょうね。死んでからの評価とかダメだよ。

(本テキストは、シンポジウムの録音テープを元に第0研究室が原稿を作成し、後藤繁雄氏に加筆・修正をし頂いた後にここに掲載されています。本テキストの二次使用に際しては、事前に第0研究室の了承を得て下さい。)

〈参考資料1:講演参加者からのフィードバック〉

 シンポジウム終了直後、複数の参加者に感想を聞いた。その過程で浮かび上がったのは、美術ないしは音楽の専門教育においていちばん欠落しているのが、今回後藤さんに話して頂いたビジネス・スタディの分野であるということだった。会場にも来ていただいた山梨大学の井坂助教授は「私の関わっている大学では、博物館学とかで学ぶことになるんですが、学問の枠を越えない学問でしかない。それを自分の大学の問題として聞いていたんです。ああいったお話をされる方がいないし、学生に生の刺激を与えない」と語り、これは山梨大学だけの問題でなく、人材が全国的に不足していると指摘した。インタビューに応じてくれた他の参加者も、大学ではマーケティングやプロデュースの話しはほとんど聞かれなかったと一様に語り、音楽事務所に勤務する徳富健治氏は「外で働くようになって知るようになった。事務所の社長とかプロデューサーが全く同じことを言ってくれるので」と教えてくれた。ただし学生や、とりわけ学卒者にとっては、芸術家としていかに生計を立てるかが最大の課題であり、学生からのこうした知識に対する需要は高い。ファイル展出品者の石川聖氏は「死んでから有名になるのを待つのではなく、みんなアーティストになろうというのが印象的。自分もそういうところで悩んでいるので自分にプラスになった講演会だった」と、こうした講演が開かれることの意義を積極的に評価した。
 1990年代末から現在まで、武蔵野美術大学の芸術文化学科、京都造形芸術大学のASP、常葉学園大学の造形学科、静岡文化芸術大学の芸術文化学科など、全国にキュレーター・プロデューサー養成の学科が新設されている。社会的な風潮として、バブル期の官主導による箱モノ美術行政への反省として、人的資源の育成が真剣に考えられるようになった。第0研究室としても、このような企画を引き続き主催し、引き続きこの問題を考えていきたい。(文責・荒木)

〈参考資料2:イベントのコンセプト〉

編集者・アートディレクターなどの顔をもつ後藤氏は坂本龍一さんや、たくさんの写真家、アーティストたちの「アートブック」を企画・編集・制作し、また、KPOキリンプラザ大阪のコミッティメンバーとして、展覧会のアートプロデュースを積極的におこなわれています。「アートやアートブックは、世の中からすれば、あまり役に立つものと思われてこなかった。おなかもふくれないし、儲かるかどうかもわからない。なんか難しくて、頭が痛くなるものというわけです。しかし、その『無用のもの』といわれる物事がこれから、次の時代を切り開く大きな力になるのだ」これからの表現者のあるべき姿とは、この社会のなかで僕らが生き残って行くには…。一緒に考えてみませんか?

〈参考資料3:後藤繁雄さんの仕事〉

・『観光』(細野晴臣+中沢新一)・『テクノドン』(YMO)・『TOKYO LOVE』(ナン・ゴールディン+荒木経惟)
・『TOKYO PHOTO+GRAPHICS』(高橋恭司/長島有里枝/ホンマタカシなど)・『花椿』・『エスクァイア』
・『彼女たちは小説を書く』(柳美里、吉本ばなな、江國香織ら女性作家8人へのインタビュー集)
・銀座資生堂の文化サロン「WORD」のプログラム・ディレクター・code(坂本龍一らとのアートユニット)発行の『unfinished』編集長
・KIRIN PLAZA OSAKAのコミッティメンバー
・ストリートアートの運動体artbeatを立ち上げる秋葉原ITセンターを見据えたNPOであるA.I..I理事
・京都造形芸術大学芸術表現・アートプロデュース学科(ASP)学科長

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