つくられる個性:東京芸術大学と受験産業の美術教育

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1章 芸大受験産業前史

本章で論じるのは、明治時代初期から第二次世界大戦終結までの期間に、東京美術学校において西洋美術の日本への輸入が行われた経緯である。筆者はこの期間を受験産業が形成される前の時期として位置づけているが、第二次世界大戦後の東京芸大と美術予備校の関係を考えるためには、この期間に西洋の美術制度がどのように輸入されたのかを知ることが重要である。この間の動きは大まかに分けて東京美術学校を中心とした政府主導の動きと、美術研究所を中心とした民間レベルでの動きに大別されるため、本章でも前半で政府の動きを、後半で民間の動きを追う。だが、論を進める過程で明らかになるが、これら二層は別個に活動しているのではなく、強い人的繋がりの元で連動して動いている。従って本章では、両者間の連動が美術教育産業の形成とどのように関わっているのか、それを明らかにする事を最終的な目標にする。


1節 工部美術学校

日本の美術学校で西洋美術の受容がどの時点で開始されたかは定かではないが、『原色図版日本美術史年表』(1999年)の記述に従えば、遅くとも江戸末期には幕府による蘭学研究の一環として西洋美術研究が行われていたのは確かである。1857年には川上冬崖が蕃書調所の絵図調出役に就任して西洋画の研究と指導に着手し、1861年には同所内に画学局が設置されて川上は画学出役となっている。当初、西洋の絵画技術は「画学」と呼ばれ、測量術や製図技術などへの転用が期待される重要な分野として位置づけられていた。一方、我が国で「美術」という言葉が初めて用いられたのは、明治政府が1873年のウィーン万博に参加した際、出品分類区分にドイツ語のKunstgewerbeの訳語として採用された時であることが北澤の研究により判明している*1。この「美術」という語は、佐藤によると「西洋概念の翻訳として成立」し、さらに「政府による官製用語として成立し、その移植と普及も国家の主導で行われた」*2

そして「美術」の語を冠した官立教育機関が登場するのは、1876年に工部省が開設した工部美術学校が最初である。このように、官立の学校で教育を行うことにより「美術」という語およびその概念は巷間に普及していったと考えられている。

工部美術学校にはイタリアから3人のお雇い外国人が招聘されている。1876年に来日し、絵画の指導に当たったフォンタネージは、イタリアでは美術学校の風景画の教授として名声を確立していたため、日本の洋画塾で西洋画の勉強をしていた日本の若い画家から喝采を浴びた。「工部美術学校画学生徒階級表」*3には小山正太郎、松岡寿、浅井忠、西敬、五姓田義松、山本芳翠、山下りんなど、明治時代前半を代表する洋画家の名前が並び、この学校が日本における西洋美術受容に重要な役割を果たしていたことが分かる。

続いて、工部美術学校の授業内容を見てみよう。一刻も早い富国強兵を目指した明治政府にとっては、美術といえども「芸術性は二の次」であり、「地図や図表を作るための測量術、土木設土木設計などの実用教育」が求められていたのだが、フォンタネージが行った教育はむしろヨーロッパの美術アカデミーの王道を行くものであった*4。『東京芸術大学百年史』(以下、『百年史』)東京美術学校篇篇第一巻(1987年)の記述によると、授業は「まず臨画(フォンタネージの素描などの模写)に始まり、石膏人物(半身→立像)写生(石版画手本模写・実物写生)、それから人物手足写生(石版画手本模写・実物写生)、次に油画による人物写生または草花写生、更に黒灰筆(コンテ)による人物写生へと進み、そのあとで鉛筆風景写生から油画風景写生へと至るコース」*5とあり、美術アカデミーにおいて崇高な画題とされた人体、即ち神の似姿である理想の人体比率を学ぶために、手本模写や石膏デッサンなどのカリキュラムが組まれていた。ただし、工部美術学校の生徒がフォンタネージらお雇い外国人の教育意図をどこまで正確に理解していたかには疑問があり、たとえば同書には高橋由一門下の安藤仲太郎が「フォンタネージの油画を初めて見た時には「実にメチャメチャのキタナイ絵」だと思った」というエピソードも紹介されている*6

ともあれ、ここで重要なのは、日本における西洋美術の受容が画学局から工部美術学校に至る官主導の機関で行われたこと、そして政府が摂取しようとした西洋美術が古典的な美術アカデミーの教育理念であったということだ。


2節 東京美術学校

フォンタネージは在任2年足らずでイタリアに帰国し、工部美術学校も1883年に廃校となり、その6年後には文部省の管轄により東京美術学校が開設される*7。その設置背景となったのは、政府主導の美術政策による西洋画の隆盛とそれに伴う日本の伝統美術の軽視、そしてその反動としての1880年代からの国粋主義運動であった。美術における国粋主義を直接に推進したのは東京帝国大学で教鞭を執ったアーネスト・フェノロサと大学で助手を務めた岡倉天心であり、とりわけフェノロサが1882年に行った『美術真説』の講演は美術学校設立の直接の契機となった。ただし絵画科(日本画)・木彫・美術工芸の伝統美術3科のみで学校を設立しようとしたフェノロサ等に対して西洋派の文相森有礼が強く反対し、美術学校は大学ではなく各種学校扱いでのスタートとなる*8。最終的に、東京美術学校は1903年の専門学校令公布により官立専門学校に昇格されるが、そのためには西洋画科の設置、フランス帰りの黒田清輝の教授就任など、美術学校の洋風化を待たなければならなかった。

東京美術学校内に西洋画科が設置されたのは1896年のことである。設置の背景には文部大臣西園寺公望による画策があったことが伝えられており、伝統美術のみを教えてきた東京美術学校の方針転換を示す「本邦美術史上の大事件」であった*9。開設時の教員には、嘱託教員として黒田清輝、助教授として藤島武二、和田英作、岡田三郎助の3名、そして嘱託教員として久米圭一郎が専任されている。彼らはいずれも明治政府の中枢を担う藩閥雄藩の出身で、特に黒田は薩摩藩の名門の生まれである。これに対して東京美術学校の日本画の教員は主に旧幕系の出身であり、また学校開設に尽力した岡倉天心も福井藩士の出であった。最終的に天心は美術学校を追われ、美術学校の実権は黒田ら洋画系の指導陣が握ることになる*10


3節 黒田清輝

フランスに留学し、「外光派」と呼ばれた印象派風の画風を日本にもたらした黒田清輝の帰国は、「明治絵画史に画期をなす出来事」であったと伝えられている。黒田の帰朝は「「画工」から「芸術家」としての「画家」が分離形成される重要な契機」であり、それによって「自然の在り方を絵画の基本に据え、それに対する個々人の感覚を重視」するあり方がもたらされたのである*11

黒田のフランスでの足跡を簡単にたどると、はじめフランスの法律制度を勉強することを望んでおり、1884年に義兄のフランス公使館就任を期に渡仏している。ところがフランスで山本芳翠や藤雅三らに触発されて画家に転向している。1886年には美術アカデミーの画家でありサロンへの入選も果たしていたラファエル・コランの下に入門し、古典絵画の模写、石膏デッサン、人体デッサンなど、当時の美術アカデミーに典型的な古典主義的絵画教育を受けている。1893年には等身大の裸体画である『朝妝』がSociete National des Beaux-Artsの公募展に入選、その後帰国している。

黒田がコランのもとに入門した1886年は、最後の印象派展が開かれており、フランス美術界が古典主義からから次第に印象派へと主流がシフトしていく時期でもあった。黒田が1890年から滞在していたグレー・シュル・ロワンには北欧やアメリカから集まった画家たちのコロニーがあり、彼らの印象派風の作風や奔放な振る舞いに黒田は影響を受けている。このように、黒田が滞在していた19世紀末のフランスはちょうど美術潮流の移行期であり、黒田はアカデミックな教育と自由な創造性という質の異なる志向をそのまま日本に持ち込むこととなる。

日本に戻った黒田は東京美術学校の西洋画科嘱託教員に就任し、「独創的」で「他の社会と異った、一種固有の美術家の生活」を送る芸術家のイメージを普及させている* 12。森口多里の『美術五十年史』(1943年)によると、こうしたイメージの普及に貢献したのは、やはりフランスに学び、東京美術学校の西洋美術史の教師となった岩村透である。岩村は芋洗生の名で二六新報に『巴里の美術学生』という一文を発表し、「美術家が、他の人間社会と別に団体を結んで、他人のことには一切無頓着に、朝から晩まで美術の事計り見、聞き、話して一生涯を暮せるといふ」社会に対する賛辞を述べている*13。さらに森口は、黒田が美術学校にもたらした「超階級的な自由と闊達との中の団体的親睦を理想とする精神」が「東京美術学校西洋画の生徒の間に他とちがった一種の気風を醸し出したことは否めない。それは修学旅行や運動会の際に大いに発揮され、度々常軌を逸して秩序と貞節とを忘れることさえあった」と、ボヘミアン的な気質が西洋画科の学生に浸透している様子を描いている*14。こうした振る舞いの裏に、「自律的創造者としての芸術家」になりたいという、黒田や彼の門下生らの願いが透けて見えるだろう。

他方、黒田は東京美術学校のカリキュラムにおいてコラン仕込みの和製アカデミーを確立する。黒田は授業の抱負を「余は出来得る限り自由即ち規則などに束縛せられない様な工合にして学生の習学に便ずる考へ」と語っているのだが、他方カリキュラムについては「この洋画科は都合四年の学期で第一年は石膏物の写生第二年は人物即ち裸体等の写生此二年は木炭で第三年に至り油絵を習はせ第四年を以て卒業試験に充てる次第」であると語っている*15。事実、西洋画科のカリキュラムは黒田の抱負を忠実になぞったものであり、一年次で石膏デッサン、二年次で人体デッサン、三年次で油彩、四年次で卒業制作となっていた*16。あるいは、官立の教育機関の教員としての立場が、黒田をしてこのような二枚舌戦略を採らせたのかもしれない。いずれにしろ、カリキュラムの基本方針は、黒田が所属する美術団体である白馬会の画家が西洋画科を独占することで、さしたる変更もなく第二次世界大戦後まで引き継がれることになる。


4節 太平洋画会と白馬会

こうした政府レベルの西洋美術受容と平行して、明治時代は民間のレベルでもさまざまな美術動向がみられ、また数多くの美術教育機関が設立された。最初期の教育機関は、川上や、同じく開成所の画学局に1862年に入所していた高橋由一らが開いた洋画私塾であり、ここで彼らは洋画技法の指導と普及に努めている*17。ただしいずれも工部美術学校よりも早く設立されており、その授業内容は試行錯誤の連続であったことは想像に難くない*18。民間の動きが真に活発になるのは、19世紀末に明治美術会と白馬会という名の美術団体が設立されて以降である*19

浅井忠・松岡寿・西敬ら、工部美術学校に学んでいた学生たちは、フォンタネージの後継者として赴任してきたプロスペロ・フェレッチの無能に失望して連袂退校し、1889年にはフランスでの勉強を終えた山本芳翠や黒田清輝らも参加して明治美術会という名の美術団体を結成する。この明治美術会は我が国最初の洋画家団体として注目を集めたが、フォンタネージ流の教えを守る小山正太郎らと、フランス帰朝の黒田・久米らの対立が激化し、内部分裂に発展する。明治美術会は1902年に浅井忠・小山正太郎の門下生を中心にした太平洋画会に発展解消する。一方、明治美術会を飛び出した黒田・久米は、それまで山本芳翠が経営していた生巧館画学校の学生を引き受け、1894年に天真道場という名前の洋画指導研究所を開設し、さらに1896年、「白馬会」という美術団体を結成する*20。これら美術団体で重要なのは、第一に、白馬会は文部省を権力の後ろ盾としていたこと*21、第二に、共に「研究所」と呼ばれる独自の美術家養成機関を擁していたこと、そして第三に、西欧の美術アカデミーに倣って「公募展」と呼ばれる展覧会を企画し、作品発表の場を準備したことである。

白馬会は1896年に天真道場を白馬会洋画研究所と改称、太平洋画会は1904年に太平洋画会研究所を設立している。森口は「白馬会は、これら(東京美術学校:筆者註)の卒業生が更に進んで洋画を研究するための機関として、32年白馬会研究所を、溜池の合田清の西洋木版工場の一部に設け黒田と久米とが研究生を指導した」*22と記述しており、また、彫刻家の朝倉文夫、石川確治、藤井浩祐らは美術学校を卒業したのちに太平洋画会の研究所でデッサンの勉強をしていることなどから、これら研究所は、当初は東京美術学校卒業生が学習を続けるための機関として設立されたと推測される。

白馬会や太平洋画会、さらに後に見る川端画学校などの美術研究所で行われていた教育は、美術学校のそれと良く似たものだった。白馬会洋画研究所の黒田・久米をはじめ、主要な研究所の教師はいずれも東京美術学校の教員であり、なおかつヨーロッパに渡って美術アカデミーでの教育を受け、石膏デッサンや人体デッサンによる理想的な人体比例の把握を芸術表現の基礎とみなしていた*23。この思想は授業を通し日本の学生に伝えられており、小島善太郎の自伝小説『若き日の自画像』(1978年)にも、人体デッサンの重要性を訴える記述が見られる。小島は白馬会洋画研究所の後身である葵橋洋画研究所で美術の手ほどきを受けているが、小島は「自分は研究所へはつとめて通学し、人体を描き続けて行った。画を描くには先ず人体を充分に描きこなしておかないと、画面のまとめは不可能とさえ言える。つまり緻密な観察や画の統御ができず、若し怠った者は先きに行って画面の建設的な要素を欠くからで、人体を素材にして色々の角度から研究する。…人体描写は必須の条件を持っている訳で、画の真描き骨法と云うこともここから会得できる」*24と記述している。デッサンが絵画の根本であるという思想は20世紀初頭にはかなり普及していたようで、1915年1月号の『みづゑ』にも「前にも少しく述べた如く、素描は水彩画のみでない、絵画を学ぶに最も必要のもので、美術学校でも各所の研究所でも、主として教授するのは素描のみである。素描さえ上達すればどんな画でも自由に描けるのである」*25という記述があるように、美術雑誌等にはデッサンの重要性を訴える記述が繰り返し現れている。

また、公募展については、白馬会が第一回白馬会展を開いたのが1896年、太平洋画会が上野で第一回展を開いたのが1902年3月である。当時、画家が作品を発表する場所は、これら公募展か、あるいは1907年に文部大臣牧野伸顕、東京美術学校校長の正木直彦、黒田清輝等が開設した文部省美術展覧会(文展)に限られていた。これら公募展に出品し、受賞することが画家の栄達を左右したのである*26

公募展は西洋の美術アカデミーにおけるサロンのシステムを日本に移植したものであったが、完全な複製であったかというと、必ずしもそうではない。青木繁が1903年の第八回白馬会展でデビューを飾った作品は、明治ロマン主義としばし形容される『黄泉比良坂』であった。青木は異端児と称されながら、本作品で白馬会賞を受賞している。以後、白馬会、文展らの受賞者をみると、アカデミックな作風の画家と共に、外光派風の作品を残した中村彝(第三回文展から第五回文展で三等受賞)、フォービズムの前田寛治の『少女と子供』(第六回、第八回帝展で三等、第十回文展では美術院賞受賞)などが受賞しており、本来の意味でのアカデミズム絵画から逸脱した表現にも比較的寛容であった。これら美術団体の特徴であるシステムの硬直性と表現形式に対する柔軟性は、大正期に反文展の立場から設立されるさまざまな美術団体にも共通しており、その後戦後まで続く美術団体の繁栄を支える屋台骨となる。


5節 美術学校と研究所

白馬会が設立された1896年、黒田・久米・藤島らが東京美術学校の洋画科に就任すると共に、白馬会系の作家が事実上日本の洋画界を独占する。1898年と1904年にそれぞれ西洋画の助教授に就任している長原孝太郎、小林萬吾も白馬会の会員であり、白馬会解散後の1920年に助教授に就任した田辺至は黒田研究室の出身であった。白馬会そのものは1911年に「外光派油絵の普及、洋画教育の方針確立、展覧会の社会性把握、等に関して白馬会設立者達の当初の目的が達せられた」*27として解散されるが、第二次世界大戦の混乱のなかで岡田・藤島が没し、1944年の文部省発令により小林・田辺らが辞職に追い込まれるまで、白馬会系を中心とした西洋画科の人事は殆ど変更がなかった*28。また、白馬会の研究所については、組織の解散と共に閉鎖されるが、それと入れ替わるように、1909年に川端画学校、1912年に本郷洋画研究所、1925年に同舟舎洋画研究所が設立される。設立者はそれぞれ、川端玉章、岡田三郎助、小林萬吾であり、いずれも美術学校の教員であった。

白馬会が達成した「当初の目的」とは、東京美術学校の権威化であり、文部省美術展覧会の開設であったと考えられる。つまり白馬会が文部省の御用絵師となることで、従来は美術研究所や白馬会展で行ってきた教育・啓蒙業務を国家に肩代わりさせることが可能になったのだ。事実、東京美術学校の人気はこの後飛躍的に上昇する。『百年史』(1987)巻末の「附表」に記載されている西洋画科の入試倍率は、古いもので1908年の記録が残っているが、これによると、1908年の入学試験では67名中30名が合格し、入試倍率は2倍強である。ここから入試倍率は年々上昇し、1920年には133人が志願し、そのうち37名が合格、倍率は3.6倍となっている。さらに1930年には志願者が474名に達し、そのうち42名が合格、倍率11.3倍となっている。日本が満州事変に突入する1931年より倍率は漸減するが、それでもおおむね5倍以上で推移している。ちなみに1930年のその他の専攻科の倍率を見ると、日本画が4.8倍、塑造が1.75倍、木彫が1.8倍、図案(現在のデザイン)が7.9倍、彫金が2.4倍、鍛金が2倍、鋳造が1.75倍、漆工が2.25倍、そして建築が11.3倍となっている。図案科、建築科といった実学要素の強い学科を除いては、西洋画の人気は群を抜いていると言えよう。

おそらくは、この西洋画科人気を支えたのが文部省美術展覧会の存在であった。文展を設立したのが東京美術学校校長の正木直彦、黒田清輝、当時首相の西園寺公望らであった事を思い起こすと、美術の価値決定・選抜が白馬会、つまり文部省公認の美術家たちの管理下におかれていたことは想像に難くない*29

権威化がはかられた東京美術学校に若い人材を送りこむ機関として設立されたのが、前述の川端・本郷・同舟舎の3研究所であった。ここで、東京美術学校と研究所との関係について触れたい。研究所の人事を一覧して気付くのは、藤島武二、岡田三郎助、小林萬吾と、いずれも白馬会の画家、しかも東京美術学校の教員が洋画の指導に当たっていることである。これら研究室が多くの生徒を集めた1920年代、30年代は同時に東京美術学校の人気が高まった時期であり、後に見るように研究所は予備校としても機能するようになるが、その入試審査にあたる教員が受験生の指導を行っていたのである。さらに、『百年史』東京美術学校篇第二巻(1992年)には、川端画学校の設立趣意書を美術学校の校長であった正木直彦が執筆し、また開校式には正木以下「来賓三百余名」が集ったとの記述があり、川端画学校が東京美術学校と太い人脈でつながっていた事が分かる*30。つまり、当時の美術界は、文展を頂点に、東京美術学校、そして研究所という縦の繋がりを保ちながら、それぞれを統率しているのが同一人物あるいは同一組織の人物であり、統一された価値観のもとに美術教育から作家としての評価までを一貫して管理していたということになる。

以上見てきたように、美術学校と研究所との関係は、こんにち我々が想像する大学と予備校の関係とはかなり異なっていた。当時の美術学校の入学試験が専ら石膏デッサンであり、学校の授業も研究所の授業も共に基本は石膏や人体のデッサンであったこと、また、美術学校と研究所が緊密な関係を保っていたこと、さらに研究所から直接公募展に応募し、入選する作家もいたことを考え合わせると、東京美術学校と美術研究所は共に、白馬会系の画家たちが自らの体制に迎合する美術家を育成するための教育機関であったといえよう。

最後に、これら後発の研究所のうち、最も規模の大きかった川端画学校を例に、美術学校と研究所の関係を考えたい。この研究所は東京美術学校日本画科教授の川端玉章が設立したもので、1909年1月の『美術新報』によると川端が学校を設立した動機は「…純日本画の日々に衰退に赴くは主として正統なる絵画教育の方法普及せざるに基けるものなりとし故に一の私立画学を創立し唯一の官立美術学校を輔翼し且は不完全なる私塾的教育の情弊を打破せんと決心し自ら資を投じて校舎建築の計画をなせしを…」とある*31。また、「私立川端画学校規則」*32第一条には「本校ハ日本画ノ専門技術家ヲ養成スルヲ目的トス」とあり、この学校が当初は専門的な高等教育のために設立されたことが伺われる。1915年に洋画科が新設されると、当時美術学校の教授でもあった藤島武二が指導者になり、東京美術学校の人気の高まりと共に、入試準備を施す予備校的な機能も果たすようになったようだ。1940年頃の美術研究所の様子を知る本田三郎(仮称)は、筆者のインタビューに答えて次のように回想している。

「藤島(の世代)までは、教授から助教授、助手までがセットになっていて、教授に任命されると一族郎党を率いて就任するという状態だった。そのため教授が辞任すると一族もろとも総退陣していた。そして一族を支えるために研究所を開き、後陣の育成に努めていて、藤島の研究所ではそうした助手らが指導をしていた。そのころの予備校では、入試が近づくとコンクールを開き、そのとき年に一回藤島が教室にやってきて、ステッキをもってずらっと並んだデッサンを見て「ここまで」と線を引く。そうするとその学生が受かっていた。」*33
(インタビュー:本田三郎、元予備校講師)

発言中の「教授から助教授、助手までがセットになっていた」「年に一回藤島が教室にやってきた」などについては、若干誇張の嫌いもあり、また詳しい検討は本論の範疇を逸脱するのでここでは触れないが、上記のインタビューは美術研究所の役割の変化を示唆する発言として示唆に富んでいる。『東京の各種学校』(1968年)の記述によると川端画学校は実技系美術学校でもっとも大規模なもので、「開学届」*34によれば当初の生徒定員は100名であったが、大正末期には職員数9名、生徒数228名を数え、内容・規模共に最も充実した美術研究所であった*35


6節 まとめ

以上見てきたように、明治から昭和初期に至る美術界の状況は非常に混沌としているように見えながら、東京美術学校の方針は「西洋美術の摂取」に一貫して主眼がおかれている。そして、これまでの記述から、以下の二つの点が指摘される。

第一に、公募展の主催者が白馬会およびその流れをくんだ美術団体であり、白馬会の参加者が東京美術学校の教員であること、なおかつその教員らが自前の美術研究所を運営していた点が指摘される。これは、当時の美術教育界において、東京美術学校・美術団体・美術研究所の3者が連託して和製アカデミーを形成し、西洋画の普及と組織の拡大を促していたことを意味する。

もう一つ、これらの組織を支配していた黒田や久米ら白馬会の画家が「ボヘミアン的気質」を有しており、あまつさえアカデミズムの牙城であるべき東京美術学校でもその気質を遺憾なく発揮していたという点も重要である。このことは、日本におけるアカデミズムが、石膏デッサン・人体デッサンによる技術訓練を美術の基本に据えておきながら、「神の似姿たる理想の人体美」*36という思想面には無頓着であったことを意味している。美術学校西洋画科の一期生である萬鉄五郎が、フォービズムの作品として分類される『裸体美人』(1912年)を描いて東京美術学校を卒業するなど、アカデミーの護送船団は、本来ならば拒絶されるべき前衛的な表現にも寛容であった。

これらの事例を総合すると、日本近代の洋画の発展を促してきたのは、美術学校=美術団体=美術研究所の三者が連動して築き上げてきた強固な教育組織であり、それによって保護されてきたものは、特定の流派や様式ではなく、西洋美術というイメージそのものであった、ということが言えるだろう。石膏デッサンであろうが歴史画であろうがフォービズムであろうが、それが西洋美術の分脈によって正統な美術であるとのお墨付きを貰えば、安全にシステムの中に回収することができる。「西洋美術」という名称の下にさまざまな潮流の西洋美術概念を包含させてしまう、この手法こそが、黒田清輝のもたらしたアカデミズムとボヘミアニズム、つまり、教育システムの硬直性と芸術表現に対する柔軟性の相克を乗り越える手段であった。

以上見てきた近代の美術教育システムは、ながらく日本の西洋美術摂取を支えてきたが、第二次世界大戦後、国際的な美術潮流のめまぐるしい変化と国内における美術市場の伸張により、1960年代には美儒教育の制度に大きな変化が訪れる。それにつれて次第に重要度を増すのが新興の美術予備校である。しかし、戦前に構築された教育のシステムは、実は戦後もほとんど変化していない。この点を踏まえ、次章では、戦後の美術教育史を、東京芸大と美術予備校との関係を中心に論じることにする。

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脚注

*1

北澤 (1989年)を参照。

*2

佐藤 (1996年)、36頁。

*3

国立近代美術館『フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術』(1977年)、23頁。

*4

井関 (1997年) 10頁。

*5

『百年史』(1987年)、17頁。

*6

前掲書、17頁。

*7

尾崎尚文によると、工部美術学校廃校の経緯は以下の通りである。
「明治十六年一月二十三日、工部美術学校は「藤雅三以下十五名に修業證書ヲ授與」し、その究極の目的を達成しないまま廃校となった。しかし、その原因となる動きは明治十三年からで、政府の財政逼迫のため工部大学校を文部省に移管して、経費削減をもくろむ大蔵卿大隈重信の意図によって起こされたが、このとき移管は実現しなかった。太政官制度から内閣制度への官制改革により明治十九年十二月二十二日、工部省そのものが廃止され工部大学校は文部省に移管となり、明治十九年三月東京大学令交付により帝国大学工科大学となる。工部美術学校の遺品は、フォンタネージの将来した石膏像やその他図書等の一部は、今でも東京大学工学部建築学科で大切に扱われ引き継がれている。」尾崎 (1997年)、170頁。

*8

佐藤 (1996年)、167-8頁。

*9

『百年史』(1987年)、320-22頁。

*10

このあたりの経緯については、佐藤 (1996年)、165-170頁に詳しい。

*11

北澤 (1993年)、35-36頁。

*12

前掲書、36-7頁。

*13

森口 (1943年)、172頁。

*14

前掲書、172頁。

*15

黒田清輝「美術学校と西洋画」『京都美術協会雑誌』第49号(1896年)。『百年史』 (1987年)、324頁より抜粋。

*16

『百年史』(1987年)、328頁。

*17

最初期の画塾をみると、最も早いのは川上冬崖が1969年に開いた聴香読画館であり、小山正太郎、松岡寿、中村精十郎らがここで学んでいる。他にも、高橋由一が日本橋浜町に開いた洋画塾天絵楼(1873年)、國澤新九郎が麹町平河町に開いた彰技堂(1874年)などの画塾が存在する。

*18

工部美術学校の開校と共に、聴香画読館から小山正太郎・松岡寿・中丸清十郎が、彰技堂から浅井忠・守住勇魚・西敬が、天絵学舎から高橋源吉・彰城貞徳らがより本格的な教育を求めて入学している。井関 (1997年)、11頁を参照されたい。

*19

美術団体の成立・発展の経緯については、佐藤 (1996年)、158-205頁に詳しい。

*20

黒田清輝および白馬会に関しては、黒田記念館の公式ウェブサイトで、白馬会関連新聞記事などの詳細なデータが得られる。
黒田記念館URL: http://www.tobunken.go.jp/kuroda/index.html (2004年12月4日閲覧)

*21

佐藤 (1996年)、189-91頁。

*22

森口 (1943年)、174頁。

*23

西洋の美術アカデミーの思想は、次のアングルの言葉に集約されている。「美術アカデミーは(中略)デッサンのみを教えているが、しかしデッサンには全てが含まれている。デッサンこそが芸術の全てなのだ。絵画の技術的な訓練は非常に簡単なので、8日もあれば教育できる。」訳はAlbert Boimeの以下の記述に基づいている。 "The ecole des Beaux-Arts ... teaches only drawing, but drawing is everything, it is the whole of art. The material processes of painting are very simple, and can be taught in eight days." Quated in Albert Boime, "The Teaching Reforms of 1863 and the Origins of Modernism in France," Art Quarterly 1, n.s. (1977), p. 20.

*24

小島 (1978年)、225頁。

*25

丸山『みづゑ』119号 (1915, 1)、8頁。

*26

堀田昇一の小説『自由ヶ丘パルテノン』(1948年)にも、公募展入選をめぐる若い貧乏画家たちの苦闘が描かれている。

*27

森口 (1943年)、277頁。

*28

1944年の文部省発令による改革は東京芸大の歴史を考えるうえでは非常に重要であるが、本論文では受験産業との関係に集中して議論を進めるため、ここでは触れない。なお、改革の経緯は『百年史』 (1997年)、959-982頁に詳しい。

*29

『美術手帖』157号の62頁には吉岡堅二と竹林賢の対談が収録されている。吉岡は第二次世界大戦前の東京美術学校について、「いわゆる官展風なものが強くて、先生も卒業生で官展系なら、生徒もだいたいそれを目指すというような形だった」と語り、これを受けて竹林も「官展のための予備校みたいな状態だった」と語っている。

*30

『百年史』(1992年)、455-456頁。

*31

『美術新報』第7巻第21号。『百年史』 (1992年)、455頁より引用。

*32

岡村 (1911年)、159頁。

*33

このインタビューではテープへの録音を行わなかったため、発言は筆者が当日に記したフィールドノートから再構成されている。

*34

『都市紀要十七 東京の各種学校』(1968年)、41頁。

*35

前掲書、50頁。

*36

Goldstein (1996), p. 153.




「つくられる個性:東京芸大と受験産業の美術教育」荒木慎也(2005年7月10日公開)