つくられる個性:東京芸術大学と受験産業の美術教育

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2章 東京芸大と美術予備校

第二次世界大戦後、1960年代の美術界は、美術市場の伸張、絵画ブームの勃興などにより、制度の根底が大きく覆される時期を迎えていた。こうした美術産業の成長が大々的にメディアで報じられる一方、水面下では美術研究所の衰退と美術予備校の誕生、東京芸大の入試の激化とそれに伴う受験産業の形成など、美術教育の体制を大きく変える出来事が静かに進行していった。

本章で主に扱うのは、これまで論じられる機会のなかった「水面下」の戦後史である。序章でも触れたとおり、美術予備校に関する先行研究は皆無であり、筆者が参照するのは雑誌記事・雑誌広告・予備校発行の入学案内・当事者へのインタビューなどが中心になる。筆者の狙いは、これらの資料を分析することで、戦後予備校の歴史を明るみし、それと同時になぜ予備校が日本の正当な美術教育の文脈で語られてこなかったのかを解明することである。この問題を考える第一歩として、本章では第二次世界大戦後から1970年代までの東京芸大と美術予備校の関係について分析する。



1節 美術市場と画廊

美術研究所の衰退や美術予備校の誕生などが、なぜ水面下で行われたのかを理解するには、先に表側の動きを把握しておかなければならない。そこで、戦後の鍵概念である、美術市場、雑誌メディア、受験戦争について概略を説明する。

前章で見たように、洋画家を志す若者は明治時代から後を絶たなかったが、彼らを支える美術市場は当時存在せず、一部の大家のみが個人的なパトロンや買い手を得て豊かな生活を送ることができる状態が続いていた。専門的な洋画商の出現は、1925年に青樹社が、1931年に日動画廊が開廊したのが最初である。この状況が変化したのが戦後の1950年代、東京画廊(1950年)、タケミヤ画廊(1951年)、南画廊(1956年)らが登場し、雑誌『美術批評』を中心に活躍していた批評家とタイアップして若手新人の売り出しに着手した頃からである。その後美術市場は好景気に煽られて急激な伸びを見せ、1960年代後半には巨大な市場を形成する*1。それと共に東京・銀座には雨後の筍の様に膨大な数の画廊がオープンし、画商による青田刈りによって芸大の大学院生や助手の作品が陸続と売りに出された。その結果、美術家は「食えない仕事」から「食える仕事」へ、そして「憧れの仕事」と変貌し、社会に周知されることになる。こうした美術市場の成熟と共に、若い美術家は大学を卒業した後に美術団体へ参加することなく美術市場と直結することが可能となり、発表の場も公募展から画廊へと移動していった。

もう一つ、戦後の日本美術史を特徴づけるものが雑誌メディアの活躍である。第二次世界大戦下で休刊に追い込まれていた『アトリエ』、『みづゑ』、『三彩』等は1946年に相次いで復刊し、1948年には『美術手帖』、1950年には『芸術新潮』と、戦後の美術ジャーナリズムを支える雑誌もこの時期に創刊されている。さらに1952年に創刊された雑誌『美術批評』は、1957年の廃刊までの間に、中原佑介や針生一郎ら、いわゆる「戦後批評家」を次々と輩出した。また、1960年代に貿易の自由化が進み、海外の美術品が日本でも取引されるようになると、これらメディアは美術団体に支配された国内市場の閉鎖性を一斉に避難し、美術家のいっそうの美術団体離れを引き起こした。

これら雑誌のうち、特に重要なのは『美術手帖』であり、創刊以来一貫して国内外の同時代美術を取り上げ、多くの批評家・芸術家の論文を掲載して美術言説の構築に関与してきた。この雑誌のもう一つの特徴は、高校の図書館が定期購読していることであり、美術の専門家に限らず多くの若者、とくに美術家を志す高校生に、美術の世界への窓口として愛読されてきた。これにより日本の若者が国際的な美術界の移り変わりを同時代的に体験することが可能となり、ひいては国内の美術界への不満を引き起こすことにもなる。

最後に、東京芸大の受験という観点から、戦後とくに1960年代の急激な受験者増加について触れておきたい。ベビーブーマーである団塊の世代が高校生になるのが1965年、翌年には大学・短大進学率が16%を突破し、1960年代後半は所謂「大衆受験」の時代となる*2。東京芸大油画専攻の入試倍率の変遷をたどると、1950年代後半から1960年代初頭までは15倍前後で推移していたのが、1965年には21.3倍に上昇し、1966年には27.7倍、1967年には42.5倍に急増している。この後入試倍率は1978年まで40倍以上を記録し、受験者数も1967年には2,000人を突破し、1975年には2,467人まで増加している。こうした受験生の急増は受け皿となる市場の活性化を促し、1960年代には東京を中心に数多くの美術予備校が誕生することとなる。

こうした社会条件を前提としつつ、戦後の東京芸大と美術予備校についてみてみよう。


2節 初期の東京芸大

戦時中、東京美術学校は文部省統制下におかれ、かつて西洋画科を支配していた白馬会系の教授陣は相次いで辞職する。1944年には安井曾太郎・梅原龍三郎・久保守・硲伊之助が就任し、さらに1946年には伊藤廉が講師として入っている。『百年史』美術学部編(2003年)の記述によると、終戦後、GHQの指導により1949年に教育基本法が制定され、東京美術学校は東京音楽学校と合併、国立大学の東京藝術大学として生まれ変わることとなる。このときすでに洋画界の巨匠として認知されており、またすでに60歳に達していた安井・梅原は1950年に辞職、その後任には一世代下の小磯良平(1950年)、林武(1952年)、山口薫(1953年)らが就任する*3。この時点でようやく戦後の油画専攻の体制が整った。

新生東京芸大がどのような大学であったか、まずは入学試験から見てみよう。1949年の第一回学生募集を見ると、油画科の試験は

「第一次(実技)」
  • 木炭画 木炭、カルトン、消具用意のこと
  • 作品提出(自筆近作彩画) 種類大サ(十号程度)自由 各自一点実技試験二日目に提出
「第二次(学科)」
  • 学力検査及身体検査*4

とあり、試験日は実技が6月8日、9日の二日間、それぞれ午前10時から午後3時までとなっている*5。なお、ここでいう木炭画の主題は「ボルゲーゼのマルス胸像」という石膏像であったことが判明しており、旧美術学校時代に行われた石膏デッサンが未だに続いていたことを示している*6

引き続き入試問題の歴史を追ってみよう。東京芸大の美術学部教務係に残されている『入学試験問題綴』という資料によると、「木炭画写生」の試験は1966年まで続き、主題は専ら石膏胸像である*7。また、1956年度より「自筆彩画持参提出」が廃止され、代わりに試験会場で油彩画ないし水彩画を描くこととなっている。画題は専ら人物画である。試験内容は1968年から1972年までは資料が見つからず、1973年には一次試験で「布と石膏像の木炭素描」、二次試験で「静物着彩」とあり、二次試験が人物から静物に変更されているものの、基本路線は堅守されている。このように、東京芸大は一貫して石膏デッサンと人物油彩というアカデミズムの基本に忠実な試験を出題しており、それが変化するには、野見山暁治による1974年の試験改革を待たねばならない。

続いて授業内容を見ると、こちらも石膏デッサン、人体デッサン、人体油彩が引き続き行われており、変化が起こるのは1960年代の後半になってからである。『百年史』に掲載されている佐藤一郎の学生時代(1966年入学)の回想によると、在学時の実技授業は「黒田清輝の天真道場に掲げられていた規定「稽古は塑像活人臨写に限ること」さながらであ」ったが、しかし「三年生になると、脇田さん*8も教授となり、…油画は油絵具だけで描くものだという固定観念を打ち破り、脇田さんは墨、水彩絵具などとの油絵具の併用を勧め、フタロシアニン系の鮮やかな透明色の存在を教えてくれた」と記されている*9

だが、石膏デッサン・人物油彩などの基礎訓練が直ちに廃止されたわけではない。1976年の油画専攻のカリキュラムを見ると、1年のはじめに石膏デッサンを行った後、2年次修了まで「人体・油」が続いている。変化が出るのは3年次からで、各教官の研究室単位にカリキュラムが分かれ、テンペラやコラージュなどの技法に重点を置いたもの、「自由研究」となっているものなどがあり、1、2年次と3、4年次で学校側がシステムを使い分けているのが分かる*10

ともあれ、東京芸大においては戦後も引き続きデッサン教育が最重要視され、その信念に基づいた周到なカリキュラムが組まれていた。この点について、過去の雑誌記事などから東京芸大の教官がどのような意識を持っていたのかが伺えるので、次節で検討したい。


3節 芸大教授の意見

東京芸大のカリキュラムについて、当の教授陣はどのように考えていたのだろうか。この手掛かりとして、林武が油画専攻の教授に就任した際にインタビューを受けている。林は自身の教育をふりかえり、「廿五歳の時日本美術〔学校〕に入って一年程いたことがありますが僕は殆んど独学です。十五・六年前パリに行つた時は確か唯がむしやらに勉強しました。自分で会得したんですね。ただ手を取つて教えるということは無意味ですよ」と明言し、さらに「まあ絵描きは絵だけをやつている方がいゝんです、実際には山の中へでも入つてやりたいんですよ」とも語っている*11。「自立的創造者」の典型的なイメージがにじみ出た言葉であるが、興味深いのは、林が国立大学の教員であるにも関わらず教育の不要を語っているという点である。林が言う「手を取つて教える」という言葉から通常連想されるのはまさしくデッサンの訓練であるが、それを学生に強いる立場の人間が否定しているのである。

この矛盾がより明確に現れるのが、当時教授であった久保守の発言においてである。石膏デッサンが重要である理由について、久保は1960年12月号の『別冊アトリエ』で次のように記している。

「視覚的には誰でも正常な形を見ている筈なのに、さてこれを紙なり画布の上に描いてみようとすると、たとえば長さや大きさの比例と云うような簡単なことさえ案外正常に見ては居ず、手もまた思う様に表わすことが出来ないのに気がつきます。まして立体的な形の複雑な組立を描くと云うことになりますと、肉体的に又頭脳的に相当の訓練が必要になって来ます。石膏像を写実的に描く作業で、まずこのような能力を獲得することが期待されます」*12

また、デッサンの目的は似顔絵を描くことではないとし、「と云うわけは無意味な形や凹凸に意義をみつけて描くことが勉強になるからです。…何でもよい出た所とひっこんだ所として純形体的に扱うことが為になります。これは「眼」だと思って描くと実生活に於ける「眼」とはどう云うものかと云う概念がまぎれ込んで対象が視覚的にどう見えているのかと云う事実を見逃し易いのです。…厳格に只の立体的な形として扱って結果的には「眼」とわかる様に描いてご覧なさい。」とも記述している*13

つまり、久保にとってのデッサンとは、人の姿をした石膏像を、偶然人の姿をした石の塊として観察し、そこに付託された意味を意識的に剥奪する視覚の統制であり、もっと端的に言えば、巧く似せるために対象を出来る限り冷静に観察する訓練なのである。

ただし久保は上記の文章の後に「このことは無論石膏デッサンの場合に限っておすすめする事で、ひろく創作活動にまで押しひろげて主張するのではありません」と但し書きを付け加え、さらに「一応正常な形が描け、立体感を表はす能力を得たとしても、これだけでは未だ芸術以前の段階です。…それではこの芸術以前の全く基礎的な能力が、芸術の基礎として働らいてくるのには、いつ何がプラスされなければならないでしょうか?」と自分自身に問い掛けた後、「ものを見るのに合理的な観察はなく、感受性を以って見なければ絵に心は通はないでしょう」と、芸術的な価値は石膏デッサンの訓練とは関係がないと認めている*14

それでは、なぜ石膏デッサンを東京芸大でおこなうのだろうか。久保の意見がより明確に現れているのが、『美術手帖』1956年9月号 で益田義信と行った対談である。ここでは益田が三ヶ月間のアメリカ視察を終え、久保と益田がそれぞれ日米の美術教育の観点を代表するという方式で意見が交わされている。アメリカの美術学校では木炭デッサンと同時に、あるいはデッサンを行わずに「いきなりアブストラクションを教える」と説明する益田に対し、久保は次のように答えている。

「僕たちは写実ということは芸術上の立場として一つの立場をもつことはもちろんのこと、教育として勉強の手段として写実をやることは、いまいった形体や色彩の複雑な変化について目を向けることだから必要だと思っている。ですから日本の美術学校では勉強の根本を写実的態度におくような方針をとっているのです。…上野の学校では写実的態度で勉強するということをスローガンにしていますが、うちではどんなものを描いてもいい、夏休みに描くのも自由です。けれども学校の教室では、いちおう写実的立場で描くということをモットーにしているから、初歩の人が石膏をキュービズムで描いたりすればとめますよ」*15

益田は「(写実以外の)分野を修得する一つのきっかけというものを、学校は与えていないのじゃないかな」と久保に意見を求め、久保自身「そうね、その点はあまり力が払われてはいないね」と認めている。しかしその後久保は「抽象の世界で教育と云う事を成立させるのはむずかしいね。出来ないのじゃあないか?写実のことは、学ばなければできないとおもうのだが。」と発言し、さらに「むしろ学習よりは、創作する分野が多いという…」と主張し、益田もそれを認め、最後は久保の「絵の感覚はなんで養うかということは、結論が出ていないということだ。」という言葉で打ち切られる。ここで久保がいわんとしているのは、技術と共に表現力も必要だが、表現は創造的な行為なので教えられないから東京芸大ではデッサンを訓練する、ということだ。そして久保の発言の背景には、技術の基礎は写実であるという信念が前提になっている。写実絵画であれ抽象絵画であれ技術は必要であるが、その矛盾はここでは触れられていない。



4節 反・石膏デッサン

終始一貫したアカデミズムの教育、および理念と内容の齟齬について、学生たちはどのように感じていたのであろうか。

たとえば、『美術手帖』1961年 5月号 では「美術学校になにを学ぶか」という特集が組まれている*16。ここには東京芸大をはじめ関東の有力美術大学の学生7人の意見が掲載されているので、そのうち2つをここに抜き書きしておこう。

「どの教室にもデッサンの神様が一人二人いて、その手つきは何年も鍛えあげられた職人を思わせる。眼と手が物を処理する型に奉仕し、石膏デッサンの要求する質感とバルールを忠実に絵具に置きかえる。…私は何よりもまず、発想や方法が型に堕するのを恐れた。そして、絵画にもっとも重要と思われる内部のイメージの問題が素通りされているのも不満であった。私は教室でモデルに向き合いながら、「裸婦を描いて、この複雑な現代をはたして表現できるか?」などと、クソ真面目に考えていた。」
(佐々木豊、芸大油画専攻科1961年卒業)*17

「勉強しようと思えば好きな時間にできるにはできたものの、それはあくまでも時間でしかないのです。芸大油画科は明けても暮れても教室に裸のモデルがいるところです。これを十年一日のように写生する、同じ操作のくり返しです。これを三年半続けてやっと卒業制作になると、またもやモチーフは人物という、きつい制約があります。制約があることは、一つの勉強をする上に決して悪いことだとは思いませんが、この制約だけはどんな柔軟な想像の世界をも働かすことのできないものです。表面いくら自由な時間があってもどうにもならないことで、精神の自由な広がりの世界を持つことができないのです。」
(松本陽子、芸大油画科1960年卒業)*18

これら学生の意見に対し、東京芸大の教官であった伊藤廉は、同一紙面上で学生への反論と受け取れる次の文章を残している。

「天才は見つけ出されるけれども、つくられるものではないということは当然のことで、芸術の仕事は天才を必要とするということも、そうに違いないのですから、そういうとこで芸術教育というのはおかしいといえばおかしい。」*19

それでは東京芸大の役割は、と伊藤は続ける。

「マックス・ジャコブがこういうことをいっています。『美学の範囲にあっては、何人も根本的に新しくはありえない。美の法則は永久不変である。だからどんな過激な革新家たちも、われにもあらずその法則に従っているのである。ただ彼らは、彼ら独自の様式で従っているのである。興味はその点にある。』
『われにもあらず従う』ようになる、その従うことを強制させられるものを体得させる場が学校であります。」*20

ここで伊藤は前半で芸術家は天才であると主張しつつ、後半ではその基礎としてデッサン教育の必要性を説くという自己矛盾に陥っている。つまり戦後間もない頃の東京芸大の教授陣は、世間的には教育の主体的関与を否定し、自由な創造を讃える一方で、他方入試の場面においては徹底的な技術訓練を要求しているのである。

1950年代後半から1960年代にかけて、『美術手帖』では繰り返し美術教育に関する特集が組まれていたが、その度に東京芸大の学生や美術家等は東京芸大の保守性を強く非難してきた。しかし、芸大のカリキュラムに対する不満の声が高まっていた1960年代のさなか、東京芸大の教授たちは受験参考書を執筆していた。雑誌『アトリエ』およびその別冊の特集として、「新しい石膏デッサンの手引」(『別冊アトリエ』第63号)、「石膏デッサン初歩実技全科」(『アトリエ』第455号)、『石膏デッサン実技のポイント』(『アトリエ』第467号)『人物・人体油絵デッサン実技のポイント』(『アトリエ』第473号)などのタイトルで出された一連の書籍がそれである(図版1、2参照)。

図版1 : 『石膏デッサン初歩実技全科』アトリエ455号 (1960. 11)、表紙。
図版2 : 『石膏デッサンの手ほどき』アトリエ551号 (1973. 1)、42ページ。

著者はいずれも「東京芸術大学油絵科研究室」ないし「東京芸術大学油画教官共同執筆」となっており、執筆には伊藤廉、山口薫、久保守等が当たっている。先に教育の不要を公言していた林武も、『別冊アトリエ』の第19号と第21号、「油画実技教室」のデッサン篇と油絵篇に名を連ねている。これらは受験生向けに編纂されたと思われるものが多く、芸大の入試で頻繁に出題されていた石膏胸像を中心に、構図のとり方から細部の描き方に至るまで懇切丁寧に解説されている。

こうした東京芸大の一連の動きの意味については後ほど確認するが、ここでは、以下の三点を指摘しておきたい。第一に、東京芸大の教官が「自律的創造者」としての芸術家という思想を維持しており、それゆえに授業が不要であると考えていたこと、第二に、それにもかかわらず入学試験および授業がもっぱら石膏デッサンと人体油彩を基礎におき、黒田清輝以来のアカデミズム教育を踏襲していること、そして第三に、学生間にはそういったカリキュラムがすでに時代遅れであるという認識が広く共有されていたことである。こうした大学側の動きを踏まえた上で、次節では戦後の美術予備校について分析する。



5節 阿佐ヶ谷洋画研究所とすいどうばた洋画会

第二次世界大戦と共に、かつて隆盛を誇った研究所は姿を消し、代わりに「阿佐ヶ谷洋画研究所」や「すいどうばた洋画会」といった研究所が設立された*21。これらの研究所は戦前のそれとは性格を異にしている。1947年に国家公務員法が制定されると、国立大学の職員である東京芸大の教授は民間企業である美術研究所で指導することが出来なくなり、かつての東京美術学校と研究所のように、同一指導者による一貫した指導が不可能になったのである。これから見るように、教授が引き払い、権威の後ろ盾を失ったかつての研究所は消滅し、新しく設立された研究所は東京芸大に受験生を送りこむ入試専門の「美術予備校」となることで活路を見出そうとした。

戦前の研究所と入れ替わるように登場したのが、三輪孝が開設した「阿佐ヶ谷洋画研究所」*22である。この研究所は戦後まもなく開かれたと思われ、早くも1946年には3名の東京芸大合格者を出している。1952年10月号の『美術手帖』によると、「…阿佐ヶ谷洋画研究所は戦後開かれたものの中では最も活況で、芸大の予備校として、多くの若い画学生が通い、石膏デッサンを主とした研究所として盛んである。…この研究所は自由自主的なもので、誰でも絵を描きたい人には入所させているが、近頃、熱心な芸大受験生のみとなってしまい、一カ年以上の在籍者が多くなった」とある*23

図版3 : 阿佐ヶ谷洋画研究所の広告。『美術手帖』第108号 (1956. 5) より。

阿佐ヶ谷から東京芸大に合格した受験生の人数は『美術手帖』に掲載された広告(図版3参照)から知ることが出来る。それによると、設立初年度の1946年には合格者3名のみだったのが、1949年には14名、1951年には51名、1954年には87名とある。なぜこの予備校がこれほどまでに成功したのかに関する資料は乏しいが、1950年前後に人気が非常に高かったのは事実のようで、上述の記事には「場所が狭いので、何時もギッシリ詰まってしまい、石膏デッサンをするには良いが、モデル使用の裸婦デッサンは一寸難しい」と書かれている*24。阿佐ヶ谷の授業内容については文献資料が存在しないが、1951年に東京芸大に合格した本田は、以下のように回想している。

「自分は予備校に通わずに芸大に受かったが、一度だけ阿佐ヶ谷の一週間体験入学というのに通ったことがある。阿佐ヶ谷は三輪孝の元アトリエで、壁には石膏像が並び、面白いことに椅子がベンチ。そしてイーゼルが釘で繋がっていて、受験生は横一列になって絵を描く。だから収納効率はよかった(笑い)*25。そうした予備校教育はいやで結局行かず、わりと自由な文化学院という所で午前中はデッサンで午後は人体を勉強していた。それでもその年芸大に受かると、自分の名前が阿佐ヶ谷から受かったことになっていた。予備校以外で個人で教室を開いて芸大対策をしている者は何人かいて、また浦和にある蕨という予備校からも何人か受かっていたが、1950年頃にはもう下火になっていて、とにかく阿佐ヶ谷の一人勝ちだった。」
(インタビュー:本田三郎、元予備校講師)

雑誌記事やインタビューから推測すると、1945年から1950年代の半ばまで、芸大受験予備校と呼べる機関は事実上阿佐ヶ谷の一校のみであったと思われる。美術手帖の広告ページには、東京美術研究所、目白洋画研究所、蕨画塾などの研究所の広告が掲載されているが、先の本田の証言からすると、いずれも小規模な研究所であったと推測される。

美術予備校の動きが真に活発になるのは、阿佐ヶ谷の設立から11年後、1956年にお茶の水美術学院とすいどうばた洋画会が相次いで設立されて以降である*26。これら二つの研究所は、1960年代には東京芸大合格者数で阿佐ヶ谷を抜き、それぞれデザイン科、油画科の受験予備校として名を馳せることになるのだが、本論では油画専攻に焦点を絞って議論を進めるため、主にすいどうばた洋画会について詳しく見てみたい。

「すいどうばた洋画会」*27は、東京芸大油画専攻の一期生である高澤節によって開設された。『美術手帖』1964年 5月号 には、既に「毎年、過半数の合格者を送り出しているので有名な「すいどーばた洋画会」は、予備校中の予備校」であると紹介されており、「昼は百十人の浪人、夜は四〜五十人の高校三年生と日曜画家がつめかけて、初歩の実技と受験の訓練を受け」ていた*28。すいどーばたの芸大合格者数は、1958年には10人、1959年には23人、1960年には44人と着実に増加し、1970年には67人の合格者数を出している。阿佐ヶ谷と同様、授業の様子については文献資料が存在しないが、1961年に東京芸大に入学した中川圭一郎(仮称)によると、すいどーばたの成功は、第一に「芸大至上主義」を徹底したこと、第二に生徒指導を担当生にしたことで講師間の競争を生み出したこと、の二つがあげられるという。

筆者「今の予備校の形を作ったのがすいどーばたなんですか。」
中川「その前はお茶の水とか阿佐ヶ谷とかがあったけど、より強烈なインパクトだった。そのころ御茶美の先生は、芸大の人もいたかも知れないけど、はげちゃびんの古株とか、美術団体の重鎮とか。ベレー帽かぶってるのもいたし。…すいどーばたはそういうのは入れない。芸大を最近トップクラスで出た人しか入れないっていう方針をはっきりさせたの。芸大を受ける為に予備校に来てるんだっていう雰囲気で、休み時間になると油(絵具)だらけで昔の牢屋の名主みたいな奴が、偉そうに『俺は5年も浪人してるんだぜ』って言って、そうすると『偉いんだ』って尊敬したり。」
筆者(笑い)「そうなんですか。」
中川「それまで御茶美でもどこでもそうなんだけど、生徒が部屋にいるじゃない、そうすると先生が三人とか四人とかふらふらと見るわけよ。…すいどーばたは担任制にしたの。3月の合格発表があるときに、はっきり(どのクラスから受かったかが)出るわけよ。それで先生が自分の名誉を懸けて必死になる。それでしょっちゅうコンクールがあって、コンクールの発表があるたびに生徒が動揺した。下手でも自分のクラスから一番が出ていれば、自分が悪いと思うわけ。だけど自分のクラスからトップテンに誰も入ってないと、『悪い先生についちゃった』って思うわけ。だから先生が必死になる。クラス毎の競争を生み出した。それで抜群の合格率を勝ちとった。」
(インタビュー:中川圭一郎、元予備校講師)

もう一人、1965年にすいどーばた美術学院から東京芸大に合格し、その後講師にもなった江頭晴雄(仮称)へのインタビューを紹介しておこう。

筆者「その頃(1960年代)のすいどーばたはどんな感じでしたか。」
江頭「予備校は大学の受験の出題に沿っていくので、芸大を中心にした授業がすいどうばたで展開されていた。油絵は人物、コスチュームとヌード。P10号。これが芸大の入試サイズです。デッサンは石膏って決まってました。学科はそんなに難しいものではなくて、ただ油断すると落ちる。」
筆者「試験の基準は奇抜なテクニックや独創性ではないですか。」
江頭「ない。はっきり言って、アカデミックにしっかり空間構成が描けること。だけど人物デッサンはやらなくて済んだから、石膏ばかりやった。その頃はアトリエ出版社で毎年石膏の描き方とかをシリーズで出していて、それが全国津々浦々に教科書みたいになっていた。石膏だから、合っているか狂っているかは一目瞭然。だからそういう指導は徹底していました。朝から晩まで毎日だから。」
筆者「病気になっちゃいそうですね。」
江頭「病気。だけど受験を前にぶら下げると、走るわけだ。」
(インタビュー:江頭晴雄、専門学校教員、元予備校講師)

上記のインタビューから、阿佐ヶ谷とすいどーばたの両校が芸大入試を企業戦略の中心に位置づけていたことが理解できる。そのことを示す証拠として、阿佐ヶ谷とすいどーばたの2校は、『美術手帖』誌上できわめて特徴的な広告戦略を行っていた。両校とも、広告上で東京芸大の毎年の合格者数を発表しているのだ。最初の例は1951年1月の阿佐ヶ谷の広告で、1946年から1950年までの5年分の各専攻科の合格者数を掲載している(図版6参照)。同広告には美術団体の公募展入選者の数も記載されているのだが、芸大合格者数との扱いの差は歴然としている。

図版6 : 阿佐ヶ谷洋画研究所の広告。『美術手帖』第38号 (1951. 1) より。
東京芸大の合格者は、昭和21年度が3名、22年度が6名、24年度が13名、25年度が23名となっている。昭和23年度は入試が行われていない。

すいどーばたも阿佐ヶ谷の方法を踏襲し、設立から2年後、1959年7月号の『美術手帖』の広告(図版7参照)には、早くも本校から「油絵科48人中16人、彫刻科20人中6人」合格とある。

図版7 : すいどうばた洋画会の広告。『美術手帖』第144号 (1957. 7) より。

さらに、1956年6月号の広告(図版8参照)には「東京芸術大学副手指導」という文句も見られる*29

図版8 : すいどうばた洋画会の広告。『美術手帖』第110号 (1956. 6) より。
広告左下に「東京芸術大学副手指導」の文字が見える。

このように、予備校が東京芸大の合格者数を競い、広告上に「芸大」の文字を欠かさなかったという事実は、当時の予備校が置かれた立場を示している。既に述べた通り、これら研究所は東京芸大の後ろ盾を持たなかったため、自らの営業努力のみで学生を獲得しなければならなかった。従って、これら新興の予備校は「東京芸大」の権威を利用し、自らを「芸大の為の予備校」に位置づけることで、失われた回路を再接続しようとしたのではないだろうか。この経営戦略は、1960年代の受験者急増という追い風を受けて、急速に他の予備校にも普及していく。



6節 新宿美術学院

本章の最初でも見たとおり、すいどーばた美術学院やお茶の水美術学院が隆盛を誇っていた1960年代は、東京芸大の入試倍率が著しく上昇した時期でもあった。こうした受験者数の急激な増加に合わせるように、1960年代から70年代にかけて、数多くの予備校が新設された*30。1962年には予備校大手の代々木ゼミナールが「デッサン科」を設立、また1970年には河合塾も「河合塾美術研究所」を名古屋に開設し、芸大受験産業に参入する。1971年には実業家の松岡清次郎が「新宿美術学院」を設立し、また「立川現代美術研究所」(現・立川美術学院)に受験部が設置される。東京近郊の各県では、神奈川に「鎌倉美術研究所」(1970年)と「湘南美術学院」(1972年)が、千葉に「ふなばし美術学院」(1967年)が、そして埼玉に「彩光舎美術研究所」(1975年)と「埼玉美術学院」(1979年)が相次いで設立される。予備校数の変化を美術出版社が毎年発行している『美術年鑑』で追跡すると、1960年の『美術年鑑』に掲載されていた「実技研究所」は57校にとどまるが、1976年の同誌には、「学校・研究所」として130校の名前が見られる。これらのうち多くが「芸大受験予備校」である。そして、これら予備校が『美術手帖』に広告を出したため、広告ページは予備校によって占拠されることになる(図版9参照)。

図版9 : 1974年の『美術手帖』広告索引。広告掲載企業の約半数が「学校・研究所」で占められている。『美術手帖』26巻376号 (1974. 1) より。

このようにして、芸大受験産業は多数の予備校が競合する時代に入るのだが、1970年代に頭角を現し、最高の合格者数を誇ったのが「新宿美術学院」*31である。この予備校は設立後急成長を遂げ、1979年には東京芸大の合格者が70名となり「日本一」になった(図版10参照)。

図版10 : 新宿美術学院の広告。『美術手帖増刊:学校案内 1979』31巻453号 (1979. 8) より。
広告上部に大きく「日本一(70名)」とあり、さらに全合格者の氏名が出身高校名と共に記載されている。

なお、他の予備校と同じく、新宿美術学院についても先行研究は存在せず、『美術手帖』1999年5月号で美術家の中村政人がわずかに言及しているのみである。したがって、ここでもインタビューを用いて教育内容を検証する。

先に紹介した中川は、その後新宿美術学院で講師をしており、彼によると新宿美術学院の講師はすいどーばた美術学院からヘッドハンティングで引き抜かれた者が半数以上であったという。

中川「すいどーばたと同じ事をやったんじゃ絶対にかなうわけがない。…そこで絵のスタイルを大きく変えたのが一つある。デッサン研究科っていうのを作って、とてつもなくハードなトレーニングを行った。」
筆者「デッサンを重視されたということは、やはり受験に必須。」
中川「今はどうか知らないけど、当時はそう思った。(全科の中で)デッサンが一番上手いのは油絵科で、誰もが一目置いていた。…だから差別化する為には、日本画科やデザイン科のデッサン力を高めればすいどーばたに勝てる。それで特訓っていう言葉を使って、夜の10時11時まで。何を一番やったかというと、日本画科とデザイン科のデッサンは、それまでバックを描いちゃいけなかったの。物しか描いちゃいけなかった。それで、日本画の最初の特訓の日に、『これから10日後にお前たちのデッサンは変わってるぞ。バックを描け』って、物に対してバックを描かせた。それと『ハーフトーンを使え』って。それでびっくりする位上手くなって、全科の先生が集まってきた」
(インタビュー:中川圭一郎、元予備校講師)

翌年から、新美には「ここにはデッサンの神様がいる」という噂を聞いた受験生が多く集まるようになったという。つまり、予備校の講師が意識的に学生の絵の傾向を方向づけ、新しいスタイルを作っていったということだ。この手法は業界内でも波紋を呼び、こうした一連の傾向を持つ絵は「新美調」と呼ばれるようになる*32

また、広告戦略においても新宿美術学院はすいどーばたより更に積極的な戦略を採った。先の図版10に見られるように、「合格速報」と称して芸大合格者を実名入りで公開したのである。さらに、『美術手帖』1972年1月号より、毎月一枚学生の優秀作品を実名入りで掲載し続け、広告ページを学生表彰の場としたのである(図版11参照)。

図版11: 新宿美術学院の広告。『美術手帖』第37巻第547号 (1985. 5) より。

これについては、中村政人が「新美の広告は誌上ギャラリーシリーズとして、名前入りで公開される為、学生としては、そこに載ることはステイタスでもあった」*33と記述しており、その影響力は大きかったと見られる。この「誌上ギャラリー」は1996年まで続けられ、ここで「表彰」された学生数は300名にのぼる。こうした広告戦略は1980年頃から他の予備校でも行うようになり、『美術手帖』の広告ページは学生作品の展覧会の様相を呈すこととなる(図版12〜14参照)*34

図12(左上): 立川美術学院の広告。『美術手帖』第37巻第548号 (1986. 8) より。

図13(右上): 河合塾美術研究所の広告。『美術手帖』第38巻第558号 (1986. 3) より。

図14(左下): 埼玉美術学院の広告。『美術手帖』第45巻第668号 (1993. 4) より。


7節 予備校有害論

東京芸大の入学試験が高倍率を記録し、それと共に予備校間の競争が激化すると、雑誌メディアでは学生の創造性崩壊を危惧する声が高まった。その代表的なものは、『美術手帖』1963年3月号に奥英了が執筆した「美術学校の“効用”:期待できること期待できないこと」*35、1964年5月号の特集「芸大入試に失敗した僕ら」*36、そして1968年5月号で北村由雄が執筆した「混迷のなかの造形教育」*37である。まず1963年の記事では、奥が予備校の教育を次のように批判している。

「(東京芸大の)入学者の大半が浪人である。例えば、昨年の油絵科合格者のうち現役はわずかの六人。浪人二年組というのが一番多く、ついで浪人一年組、あとは三年、四年組も珍しくはない。したがって予備校が繁盛する。東京にある美術研究所のたぐいの大半が、美校受験洋の予備校と考えて間違いないが、芸大入学率の高さを誇るS研究所を例にとると、三部制で約二百人の生徒が通っている*38。彼らは浪人中、二年でも三年でもただ受験のためだけ石膏デッサンを勉強する。石膏デッサンが、制作にとって大切か否かの問題ではない。一般大学の受験生が、問題集を機械的に反復するように美術浪人も石膏デッサンを反復して描くのだ。」*39

1968年に北村由雄が紹介した、斎藤義重による批判はより核心をついている。

「『石膏デッサンで受験者の才能を計るのは、いかにも時代遅れだ。十九世紀の方法をそのまま踏襲していては、新しい才能の芽を発見することはできない』こういいきるのは、多摩美大で教えている斎藤義重氏である。この学校では、現に、昨年度から石膏デッサンを課していない。『…研究所などで入試のためのデッサン勉強を積んでいるものは、うまいのです。そういう環境に恵まれない地方からの受験者は、うまくない。才能よりも、経験がものをいってしまうわけです。そこで、みんな予備校にはいって勉強するという形になる。その予備校では、芸大をめざす者はこういうふうにデッサンを描くとか、武蔵野はこう、多摩美はこんな調子でと、懇切ていねいに指導するわけです。学生は、そんな技法をすっかり身につけてしまっていて、美大にはいっても、なかなか抜けない。』」*40

これら批判記事を読むと、彼らが技術偏重教育の元凶を石膏デッサンに求め、それを廃止することで受験生は解放されると考えていたことが分かる。石膏デッサンでは判定基準が「奇抜なテクニックや独創性」ではなく「アカデミックにしっかり空間構成が描ける」かどうかであり、受験生の絵が画一的になり、その結果豊かな創造性が奪われるというのだ。だが、斎藤の発言が示唆しているように、より深刻だったのは、予備校が描き方をマニュアル化して指導している事であった。これについては、多摩美術大学教授の室越健美が自身の予備校時代を回想した『僕たちの境界』で次のように記述している。

「僕は指導しながら思った。石膏像を前にして石膏デッサンの指導をする事がとても楽であった。描かれるべき対象が目の前にあるのだから。光と影の状況をよく観察する事と言えばよかった。そして僕が少し手を加えればたちまち光と影の状況が再現された。受験生は僕の老練した木炭の使い方を盗み取ればそれで良かったのだ。」*41

これらの批判は主に予備校の教育方法に向けられたものである。だが、受験生に石膏デッサンを強制してきたのは東京芸大の入学試験であり、また受験教育のマニュアル化を手伝ったのも多数の「攻略本」を出版し続けた東京芸大である。批判されている予備校の指導方法は、むしろ東京芸大の要求に忠実に答えた結果であった。

日本人の美術家が海外で活躍する機会が増えるにつれ、批判意見は1970年代には影を潜め、東京芸大そのものがメディアに載る回数も逓減していった。雑誌メディアからは泥臭い苦学生の記事は消え、代わりに国内外で活躍するスマートな若手「アーティスト」が多く登場することになる。その影で、東京芸大は1974年に入試改革を行っていた。



8節 東京芸大の入試改革

1974年、ついに東京芸大の入試から石膏像が追放される。この年の出題は次のものである。

一次試験

  • 油画(花と花瓶を主題にして、想像の野外風景を背景に描きなさい。)

二次試験

  • 素描(男子着衣座像を七部身(頭部から膝下まで入れて)木炭でデッサンしなさい)*42

この年には、想像で絵を描かせるという、東京芸大としてはおそらく初の試みを行っている。この経緯については、『藝術新潮』1987年10月号に、当時東京芸大の教授だった野見山暁治が次のように書いている。

「芸大の入試から石膏像を省いたら、日本中の絵の好きな若者たちは救われるのではないか。ぼくはやみくもにそう考えた。…数年たって入試委員を任されたとき、木炭で描く石膏像に替えて、油絵具で花を描かすことを、一次試験に採用した。以来ぼくは学校を去るまでの五年間、入試委員を辞めなかった。」*43

野見山暁治は1972年に教授に昇進し、1981年に退官して客員教授になっている。この間の試験問題は、例えば次のようなものであった。

1976年一次試験

  • 「油画:「石膏像と私」与えられたモチーフと自画像を組み合わせて描きなさい。自画像は顔、半身、全身像など自由ですが想像で描くこと。石膏像はどちらか一つを選ぶこと。石膏像は必ずしも全部を画面に入れなくともよい。参考資料は一切持ち込まないこと。」

1977年二次試験

  • 「素描:風景(音楽学部キャンパス)」

1978年二次試験

  • 「素描:モデルの一名を主題にして、室内の人物を必ずかきこむこと。成年男子2(背中合わせの座りポーズ、白又はベージュのシャツ、ジーンズ)」*44

このように内容に幅を持たせ、出題を読まれない様に工夫している。では、この改革は果たして実を結んだのだろうか。野見山は続けてこう書いている。

「それほどにも意地張って押し通した入試に何の意味もなかったことを、嫌というほど思い知らされることになったのだ。…すべての予備校は、油絵受験の二日半という日数に合せて、やたら早や描きの訓練を施し、そのための溶き油の乾燥度から、効果的な下塗りの方法までをあみだした。入学してきた学生たちは、一週間も二週間も同じポーズで立ちつづけるモデルを囲んでみても、二日半経ってしまうともう何も描くことがなくなっている。画面は乾燥の強さのせいで、やがて亀裂が生じる始末だった。石膏像を描かすのと、どこが違うのか。木炭を油絵具に替えただけの、これは制作法のパターン化だといえる。…学校というものがあり、期限を切られた入試の制度があるかぎり、絵の究極の選別方法はありえない。」*45

予備校が石膏デッサンだけではなく、油彩画技法をもマニュアル化していたというのは、先に紹介した『僕たちの境界』でも指摘されており、かなり広範に行われていたことが分かる。だが、ここで再三確認しなければならないのは、早描きはともかくそれ以外の絵画表現技法は、教授陣が執筆していた一連の「攻略本」にも書かれていたことであり、またそうして描かれた作品を東京芸大が合格させていたということである。



9節 まとめ

1950年代から、東京芸大の教授は石膏デッサンに対して曖昧な態度を取りつつ出題してきた。1960年代に石膏デッサンに対する風当たりが強くなる中、東京芸大は石膏デッサンの啓蒙に努め、美術予備校のマニュアル化に荷担しておきながら、1974年から急激な方向転換をしている。この間の芸大内部の人事を見ると、山口が1968年、小磯が71年、久保が72年、寺田春弌が78年に相次いで辞任し、代わりに先に見た野見山が68年に助教授に就任し、そして1975年には榎倉康二が非常勤講師として機構に加わるなど、徐々に世代交代が進んでいるたことが分かる。従って、東京芸大の迷走の理由を、学内の芸術表現上の(あるいは権力上の)争いの結果であると考えることも可能だ。だが、これだけでは東京芸大がデッサン教育を推進し、教育のマニュアル化を助長するような行動を見せた理由は説明できない。

東京芸大が入試改革を行った時期は、予備校が石膏デッサンのカリキュラムを体得し、それをマニュアル化していった時期と一致する。入試改革以降、東京芸大は石膏デッサンをほとんど出題しなくなるが、それでも石膏デッサンを中心とした技術中心の訓練は、予備校という目立たない場所で保存されることになる。

従って、東京芸大は、かつて黒田が持ち込んだアカデミズムとボヘミアニズムの相克を、前者を予備校産業に肩代わりさせるという方法で解決しようとしたのではないかと考えられる。本章冒頭で指摘したように、20世紀後半には、海外の美術情報の流入や美術市場の勃興など、教育制度の根底を揺るがす大きな変化が起こっていた。こうした変化は、従来の技術重視の美術教育の解体を促し、欧米で起こっている多様な芸術表現を受け入れるよう迫るものであったが、それは従来の東京芸大の体制とは相容れないものであった。従って、東京芸大は予備校と役割分担を行ったのではないだろうか。

もちろん、以上の仮説は東京芸大を一個の存在として扱った場合に該当するものであり、これまでに見た林や久保らの発言からはそうした戦略的な意図はくみ取れない。だが、仮説を裏付けるように、1980年代からの東京芸大と受験産業は、一見対立しているように見えながら、実は互いを補完する動きを見せる。次章では、1980年代以降の予備校の教育を中心に、東京芸大と予備校との相関関係について検討する。

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脚注

*1

美術市場の成立と発展については、瀬木慎一(1987年、1990年、1998年)の一連の著作に詳しい。また、『芸術新潮』1991年12月号の特集「美術マーケット日本史」にも豊富な資料が掲載されており、有用である。

*2

竹内(2000. 12)、32頁。

*3

『百年史』(2003年)、925頁。

*4

前掲書、15頁。

*5

東京芸大の入学試験が6月に行われたのは1949年のみで、翌年からは3月に行われることになる。

*6

『百年史』(2003年)、20頁。「マルス胸像」については、本論文の図版14、15を参照。

*7

1965年と66年には、一次試験の石膏素描の画題がそれぞれ「ブルータス胸像又はパジャント胸像」、「モリエール、パジャント、ジョルジョ、ヘルメス、マルスのうち一個」と、石膏像が一種類に絞られていない。さらに1967年は試験が三段階に分かれており、一次試験が「鉛筆素描(パジャント、ブルータス、マルス、ヘルメス、ゲタ、以上のうち一つの首頭部)」とあり、二次試験が「木炭素描」によるヘルメス胸像、三次試験が「油彩または水彩画」で「女性上半身と卓上静物」とある。おそらく、急増する受験生に対応しきれず、このような措置をとったと考えられる。

*8

脇田和は1968年に油画専攻の教授に昇格している。

*9

『百年史』 (2003年)、660-661頁。

*10

前掲書、798-817頁。

*11

前掲書、76頁。

*12

「新しい石膏デッサンの手引」『別冊アトリエ』第63号 (1960. 11)、2頁。

*13

前掲書、4頁。

*14

前掲書、3-4頁。

*15

『美術手帖』第114号 (1956. 9)、28-35頁。

*16

『美術手帖』第118号 (1961. 5)、12-26頁。

*17

前掲書、12頁。

*18

前掲書、14頁。

*19

前掲書、20頁。

*20

前掲書、21頁。

*21

川端洋画研究所と本郷絵画研究所の二校に関しては、『美術手帖』1952年10月号に「指導者の死と太平洋戦争の熾烈化と共に閉鎖されてしまった」とあり、また前掲書『東京の各種学校』には、川端画学校について「毎年、都総務局私学部から刊行されている『東京都私立学校名簿』には、ここ数年『所在不明』と記されている」とある。先にも見たとおり、岡田三郎助と藤島武二の二人は1939年と1943年にそれぞれ死亡しており、同舟舎の小林萬吾も1947年に死亡している。従って、これら戦前の洋画研究所は、大戦後は存続できなかったと推測される。

*22

阿佐ヶ谷洋画研究所は1960年に学校法人となり、「阿佐ヶ谷美術学園」に改称した。略称は「阿佐ヶ谷」ないし「阿佐美」であり、本論文での記載もこれらの例に従う。

*23

『美術手帖』第61号 (1952, 10)、40頁。

*24

前掲書、40頁。

*25

『美術手帖』1967年7月の広告には、佐々木の説明に該当する教室写真(図版4参照)が掲載されている。2年後の12月のすいどーばた美術学院の広告(図版5参照)と比べると、その詰め込み具合が伝わるだろう。

図4 : 阿佐ヶ谷美術学園の広告。『美術手帖』第285号 (1967. 7) より。
図5 : すいどーばた美術学院の広告。『美術手帖』第21巻312号 (1969. 5) より。

*26

すいどーばた美術学院の『入学案内』(2004年) には1957年4月創設との記載があるが、1956年の『美術手帖』には既にすいどうばた洋画会の名前で広告が掲載されている。

*27

高澤節は1966年に学校法人「高澤学園」を設立し、それと共にすいどうばた洋画会は「すいどーばた美術学院」と改称した。本校の略称は「すいどーばた」ないし「どばた」であり、本論文の記載もこれに従う。

*28

『美術手帖』第235号 (1964. 5)、107頁。

*29

副手とは授業を補佐する目的で設置された無休助手のことで、国家公務員かどうかは東京芸大の内部でもあいまいなままであった。『百年史』美術学部篇 (2003年)、56-57頁によると、副手制度は学内内規として扱われるべきものであったが、「副手規定」が実際に作製されたのは1955年である。同書57頁には「副手のなかの或る者は数年して教務補佐員や非常勤助手(学内呼称。制度的には非常勤講師)に採用され、給料が支給された。」とあり、この記述に従えば副手は事実上国家公務員に該当する。

*30

各予備校の設立年代は『BT 美術手帖2003年7月増刊号 アートスクールガイド2003』 (2003年)による。

*31

新宿美術学院は、予備校大手「新宿セミナー」の姉妹校として設立された。略称は「新美」であり、本論文での記載もこれに従う。

*32

受験生の絵画様式については3章で詳しく説明する。

*33

中村(1995)、37頁。

*34

『美術手帖』に掲載された広告より、川俣正(1974年4月、1975年1月および9月号)、保科豊巳(1975年5月号)、村上隆(1982年8月号)、中村政人(1982年4月、10月および11月、1983年2月号)など、現在活躍している美術家たちの学生時代の作品が見られる。

*35

『美術手帖』第217号 (1963. 3)、48-55頁。

*36

『美術手帖』第236号 (1964. 5)、103-108頁。

*37

『美術手帖』第297号 (1968. 5)、97-121頁。

*38

1963年時点でこれだけの学生を集めていた予備校は、おそらくすいどーばた美術学院であろう。

*39

奥 (1963. 3)、52-53頁。

*40

北村 (1968. 5)、102-103頁。

*41

本書は氏が個人的に執筆したものであり、刊行はされていないが、室越氏の好意によりここに引用する。

*42

『昭和40年〜 入学試験問題』東京芸術大学美術学部教務係所蔵。

*43

野見山 (1987. 10)、51-2頁。

*44

『昭和40年〜 入学試験問題』東京芸術大学美術学部教務係所蔵。

*45

『藝術新潮』第38巻第10号 (1987. 10)、52頁。




「つくられる個性:東京芸大と受験産業の美術教育」荒木慎也(2005年7月10日公開)