つくられる個性:東京芸術大学と受験産業の美術教育

3章に戻る   結論に進む


4章 学生と東京芸大

美術予備校間の競争は、受験に効果的な美術生産様式を編み出し、受験生はパターン化した「受験絵画」を生産することとなった。一方、東京芸大は、入試内容を技術偏中のものからより創造性の問われるものへと変容させていったが、それは結果的に美術予備校の入試対策を活発にさせ、芸大受験のための美術予備校の存在を強化させることとなった。

こうした受験産業の見方は、東京芸大と予備校を組織という視点から捕らえ、説明したものである。より微視的に、予備校の講師や受験生の流れを観察すると、これとはやや違った説明も成り立つ。後に詳しく見るように、予備校の講師には東京芸大等の学生が多く含まれていること、予備校間で芸大合格率が激しく競われていること等を通じて、予備校が芸大に権威を付与し、受験生がそれを内面化していく過程がうかがえるのである。

本章では、予備校講師、受験生、大学教員等の言説や行動に注目することにより、彼らが芸大受験産業の形成にいかに寄与しているかを考察する。



1節 予備校講師

予備校が存在することで、東京芸大の学生は様々な恩恵を受けてきた。その最たるものは、芸大生のアルバイト先としての講師職の存在だろう。概して美術学生とは制作活動に多額の投資を要求される存在であり、なおかつ制作された作品が売れるケースは非常に稀である*1。また、卒業後は就職活動を行う者が非常に少なく、大半の学生が大学院に進学し、制作活動を続けつつ美術家としての道を模索することになる*2。この間、彼らは何らかの形で収入源を確保しなければならず、彼らの主要な労働口として予備校講師という職業が存在する。

東京の大手予備校では、夏期講習や入試直前講習に高校生や地方から上京してくる受験生などが参加し、一時的に学生数が増大する期間がある。この時期の講師不足に対処するため、その予備校の出身者である東京芸大の学生が臨時講師として採用される。また、学部の3、4年生や大学院生など、比較的高学年の芸大生は、芸大内部の情報をよく知る者として常勤講師に採用される者も多い。参考として、2002年の段階で、東京近郊の予備校に何人の学生が勤務しているかを見てみると、お茶の水美術学院では実技科の全講師52名中19名が大学に在籍中の、いわゆる「学生講師」である。以下、各予備校の学生講師の数を見ると、河合塾美術研究所・東京校では49名中14名、彩光舎美術研究所で32名中18名、埼玉美術学院では28名中16名、新宿美術学院で82名中44名、すいどーばた美術学院で98名中35名、立川美術学院で60名中20名、ふなばし美術学院で43名中23名、代々木ゼミナール造形学校で51名中23名となっている。

ここに挙げたのは各予備校の入学案内に記載されている講師一覧を元にしたものであり、予備校によっては臨時講師の名前が記載されていないなど、人数の数え方には若干の誤差がある。また、あくまでも東京近郊の一部の予備校の数字のみであり、これを元に芸大生中の何%が予備校で働いているかを割り出すのは不可能である。ただ、筆者が例に挙げた予備校のみでも、これだけの数の学生講師が働いているという事実には注目する必要がある。彼ら学生講師は、大学を卒業してその予備校に正式に就職しているプロフェッショナルの講師と同等あるいはそれに近い役割を担っており、新規入学者向けの初歩実技の指導から、浪人生を対象とする実践的な入試技術まで、予備校の教育業務全般にわたって責務を負っている。

学生講師のうち、各講師の所属大学別の数字を見ると、東京芸大の在学生が圧倒的多数を占めているのが分かる*3。実際に、お茶の水美術学院では19名中11名が東京芸大の学部生及び大学院生である。以下、ふなばし美術学院では23名中18名、埼玉美術学院では16名中11名、新宿美術学院では44名中29名、代々木ゼミナール造形学校では23名中16名、河合塾美術研究所では14名中10名、立川美術学院では20名中10名、すいどーばたでは35名中26名が、東京芸大に所属する学生である。そして半分にも満たない残りのポストを、多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造形大学などの私立美大の出身者で分け合っている*4

このように、学生講師という職業は東京芸大の出身者が多数を占めている。それによって彼らはどの程度の利益を享受しているのか、一つの例として、東京芸大の博士課程に在籍する学生に対して行ったインタビューを参照する。東京芸大の博士課程に在籍する山田哲郎(仮称)は2002年まで神奈川県の予備校で講師をしていたが、2003年から東京の大手予備校に移籍した。制作コストを稼ぐために予備校には週3日出講し、一日の勤務時間は6時間である。給料は3時間で7,500円支給されるため、一ヶ月で180,000円から200,000円程度を稼いでいる。一人で生活し、なおかつ絵具代などの制作費を負担するのに充分な収入であろう。

山田「(講師の仕事を)やらなくちゃいけない状況だから。できれば辞めたい。」
筆者「制作に時間を?」
山田「うん。自分にすごく返ってくるから、自己嫌悪に陥ったりする。人を教えることに向いていないんじゃないか。あと、予備校の講師やってる人って、だいたい絵を描かなくなってるから。給料良いから絵を描かなくなっちゃうんだよね。でも今は稼がないといけないし。…講評とかだと3時間ずっと立ちっぱなし喋りっぱなしだから、辛いよ。」
筆者「講評をやってない時は何をやってるんだろう?」
山田「あ、それ言われる。生徒に。一応建て前は、カリキュラム考えたり、課題考えたり、同じか(笑い)。」
筆者「後は?」
山田「二人の時は生徒の相談したりとか、あとは参作の整理をしたりとか(笑い)。」
筆者「大した事やってないじゃん。」
山田「『大事なんだよそれがー』って言ってるの。でもそれは2週間に1回くらいの仕事で、ほとんどコーヒー飲んだりタバコ吸ったり。」
筆者「実動は講評の3時間なんだ。」
山田「そうそう。その為に体力をいかに温存するかが勝負なの。」
(インタビュー:山田哲郎、東京芸術大学大学院博士課程一年、予備校講師)

この会話から推察されるように、予備校の講師という職業は、彼の制作費及び生活を支えるに足る収入をもたらし、かつ勤務日以外は制作活動に充てることが出来るため、非常に効率がいい。この点は、1970年代に予備校で講師をし、現在は多摩美術大学の教員である森幸太(仮称)も次のように説明している。

筆者「芸大で在学されていた間、予備校で指導をされていました?」
森「やってました。大学一年の時に、夏期講習会で来たのね。なつかしいなと思った。みんな石膏をやっている。…二年の時も行ったかな。三年の時に週2、3回、非常勤の講師で来ていた。それで大学院に入る頃に常勤になった。在籍中に常勤になったんですよ。だから絵の具を買う金はあった。」
筆者「予備校は当時お金になるバイトでしたか。」
森「仕事としては先生って言われて気分悪くないし、疲れないでしょ。給料は高くないけど。仕事としては良いですよ。」
筆者「じゃあ周りにも予備校の先生は。」
森「いっぱいいました。芸大生は多いよね。だから今はうちの学生も就職活動してて、僕の場合はどうでしたって聞かれるんだけど。僕は学部の終わりから常勤で、実家だから絵の具買えて十分やっていけた。彼らからは羨ましがられるよ。『頑張ってやってれば誰かは見てるよ』とは言うんですけど、でも大変だよね」
(インタビュー:森幸太、多摩美術大学教員)

また、山田のインタビューでもう一つ特徴的なのは、講師を辞めたいと願いつつも、その一方では講師の経験が彼自身の芸術観にプラスに働いている事をも認めている点である。

山田「俺の場合は、先生になって勉強できたっていうのが大きいかな。『俺はそんなこと浪人の時から知ってたよ』っていう口振りで言うんだけど、実際は講師になってから色んな事を知った。講師をやってなかったら、知識に凄いかたよりがあったかも知れない。」
筆者「自分の好きなことしか?」
山田「自分の専門分野しかやってなかったから。それがでかかったかな」
(インタビュー:山田哲郎、東京芸術大学大学院博士課程一年、予備校講師)

以上見てきた事例では、予備校講師という職業が学生に経済的・精神的恩恵をもたらしており、そうした利益が美術家としての生活と結びついている。東京芸大を卒業し、現在活躍している美術家の履歴を調べると、学生時代に予備校で講師をしていた者が非常に多いことに驚かされる。2004年現在で東京芸大油画専攻に勤務している教授・助教授のうち、多くの者がかつて予備校で生徒指導に当たっていた。彼らが何時どの予備校に勤務していたかは公の記録が残っていないが、筆者が調べ得た限りでは、佐藤一郎、櫃田伸也、坂田哲也の3名はすいどうばた洋画会(ないしすいどーばた美術学院)に、羽生出はお茶の水美術学院に、保科豊巳は新宿美術学院と河合塾美術研究所に、小山穂太郎は東京武蔵野美術学院に、中村政人は立川美術学院に勤務していた。先端芸術表現科の教授である川俣正は1970年代に新宿美術学院の油画科で学生指導に当たっており、さらに、東京芸大の教官ではないが現在国際的に活躍している美術家のうち、奈良美智と千住博は河合塾で、村上隆は立川美術学院で、それぞれ教鞭を執っていた。以上の美術家中、奈良を除く10名はいずれも東京芸大の卒業生である。このように、予備校は受験生のみならず東京芸大の学生にとっても欠くべからざる機関であり、学生が美術家になる過程に多層的に組み込まれている*5。こうした社会条件のみをもって「東京芸大の卒業生が芸術家になれる」という結論は出せないが、高額の学費を課せられ、予備校の講師という勤め口も豊富にはなく、結果としてその大半が卒業後に就職を選択する私立美大の学生に比べて、東京芸大の学生が長期間の制作活動に従事できるのは間違いない。東京芸大の社会的認知度を加算して考えると、東京芸大の卒業生であることが将来美術家として活動できる可能性を底上げしている事は考慮されるべきである*6



2節 受験生

本論中でも何度か指摘してきたが、1970年代には数多くの予備校が設立され、競争は非常に厳しいものとなった。美術を志す高校生が最初に眼にするのは、多くの場合、高校の美術教室に配られている予備校の『入学案内』であり、高校生はそこに記載されている情報を元にして通う予備校を決定する場合が多い。現在、東京の予備校では、年間受講料は都心の予備校で680,000円から690,000円と殆ど差は見られず、年間カリキュラムも前章で見た通り予備校間による大きな差異は見られない。従って、受験生は残りの変数である「芸大合格者数」で予備校を決定することになる。

芸大合格者数が予備校そのものの善し悪しの判断に使われる理由には、上記に挙げた芸大生の階級的特権性の他に、予備校自体が受験生の関心を惹くために雑誌広告やパンフレットなどで過大に芸大合格者数を宣伝することで、受験生の獲得に努めている事も影響している。

図版22 : 新宿美術学院『入学案内』(2003年)、7ページ。

図版22は新宿美術学院の2003年度『入学案内』であるが、「東京芸術大学絵画科油画専攻8年連続全国一の合格実績」「驚異的な合格者数と合格率」「占有率42.4%」などのキャッチコピーを並べ、東京芸大と自らを結び付けることで学生の期待感を煽っている。それと同時に、東京芸大の合格者数を能力の証とすることで、東京芸大そのものの権威を高めているという働きもここから読み取れる。こうした過剰な広告ではなくとも、大学合格者を広告として掲載する場合は、図版23のように、東京芸大を一番上に掲載するのが通例であり、こうした広告の積み重ねが東京芸大の特権化を促進している。

図版23 : 埼玉美術学院『入学案内』(1999年)、30ページ。

美術の道を志す高校生が最初に眼にする美術大学の情報が、主として予備校の『入学案内』や雑誌広告であることを考えれば、予備校によって行われる大学の序列化がそのまま受験生にも持ち越され、「芸大が一番」という考えへ受験生を導いているのは否定し難い*7

芸大の権威は芸大受験産業によって複合的に保証されており、受験生が芸大を目指すようになる動機を形成している。予備校で行われている教育が美術ではないという意識は受験生にも共有されているのだが、それでも受験生が予備校に通うのは、芸大合格のためにはそれもやむを得ないと考えているからである。以下のインタビューは、二浪の学生2名、吉本桜(仮称)と津田守(仮称)に対して行ったものである。2人とも二浪目から予備校を変更しており、筆者が予備校を変えた動機を質問すると、次の返答を得た。

津田「(前の予備校の)先生は先を見過ぎ。作家志向なのはわかるけど、その前に合格しなきゃ意味ない。予備校の先生には向いてない。浪人3人と酒飲んだ時も、将来作家になってからのことを見据えてって。それは素晴らしいけど、まずはドーピングでも何でも受からせないと。」
筆者「ドーピングって何?」
津田「受かりそうな型を教えて合格させちゃう。絵の具の使い方を『これはこうやって』って教えて。」
阿部「でもその位のことは普通の予備校でも公式から教えちゃって、簡単なやり方を教えてるし、同じことだから。受からすためにはその位やってもらわないと」
(インタビュー:吉本桜、津田守、共に都内某予備校二浪生)

こうした学生の意識を端的に示すのが、第3章の土井のインタビューでも見られた、「最初に『大学はこうだ』って言っちゃうと、それしか目指さない」や、「たくさん受かった年の参作があると、それに憧れてみんなそれを真似ちゃう」という受験生の傾向である。これは受験生が自己表現のためではなく、大学に受かるために予備校に来ているという事を如実に表している。

このように、芸大受験産業は、東京芸大という中心的な価値をめぐって一つの円を描いている。そして、その前提となっているのが、受験に必要な技術が再生産可能な技術であること、すなわち入試技術は教育可能であるという、受験生と予備校との間の共通認識である。受験生は芸大合格者数を元に予備校を選び、予備校は受験技術の体現者である芸大生を講師に招き、受験生が東京芸大に受かることで予備校の地位は高まり、そして芸大合格者数の広告を見ることで新しい受験生は東京芸大が特別な存在であるという価値観を刷り込まれる。こうした人的資源の循環が、芸大受験産業の動力源となっている。



3節 美術家/大学教員

東京芸大の教授をはじめとする美術家が、かつて予備校講師として生活してきたのは既に見た通りであるが、美術教育が学生に個性や創造性を与えられると考えている美術家は非常に稀である*8。この点に関しては、既に第二章で林武や久保守の発言を分析しているが、ここでは東京芸大の前学長である澄川喜一の1999年入学式式辞を元に、同様の意識が現代でも保たれていることを確認しておこう。

「(平櫛田中)は、手ほどきは教えましょう、しかし、芸術大学という芸術の名前はついているけれども、芸術は教えられませんと最初におっしゃいました。これは最初に私が学んだ事ですが、手ほどきは誰でも教えられるし、受けられます。しかし、本当の芸術を探すということは、つかみ所がないし、なにをしていいか分からないし、自分で探すしかないわけです。」*9

こうした「反教育」の立場と関係して、美術大学の教員には、自己を教師としては見なさず、一人の作家として学生と対峙していこうとする傾向が見られる。1973年には斎藤義重が『美術手帖』で「いろいろな場で学生と接触していく。こういうときには、学生と先生という関係じゃないですね。絵を描く仲間、という意識しかないです」*10と述べ、また工藤哲巳は東京芸大への就任が決定した1987年に、『藝術新潮』のインタビューに「自由制作に任せるし、自分の作品発表を通してしか指導は不可能だ。できれば、学生と教師は良きライヴァルなのだから一緒にグループ展など試みたいが…。」*11と、大学における教師としての役割を否定している。このように、芸大および美大の教員は、教職者という立場にありながら、自らを教育の問題から切り離し、他の多くの美術家と同様の言説に自らを組み込むことで、美術家としての立場を保全している。

美術家や大学教員の教育に対する意識が最も鮮明に現れているのが、彼らの予備校に対する態度である。彼らの中で、履歴に予備校での学習歴や講師歴を明記している者は皆無である。このように、自己が予備校に存在した記録そのものを履歴から抹消しているとうことは、彼らにとって受験生としての体験や予備校での教授体験は美術家として相応しくない過去であるということだ。戦後の美術予備校が、これまで言及されてこなかった所以はここにあると考えられる。



4節 大学の教育

それでは、現在大学は学生に完全な自由を保障し、何も教育していないのかというと、必ずしもそうではない。逆説的な表現になるが、大学は教育しないという行為を通して、美術家としての振る舞い方や思考法を教育している。この事を理解するには、現在の東京芸大の状況を知る必要がある。まず注目すべきは、現在の東京芸大には若い教員が何人も配属されているということだ。

東京芸大に入学した新入生は、芸術学などの一部専攻を除き、茨城県取手市にある取手キャンパスに通い、そこで最初の一年を過ごすことになる。この取手キャンパスは、創立当時から使われてきた上野キャンパスが手狭になったという理由で1987年に新設された施設であり、上述の学部一年生の他にも、先端芸術表現科の全学生や、大学院の一部研究室など、多くの学生がここで制作活動を行っている。16万平方メートルの広い敷地には共通工房と呼ばれる24時間使用可能の大型工房や充実した音響設備を備えるメディア教育棟などの施設が点在し、自由に制作活動が出来る環境が整っている。予備校で毎日のように新しい課題を出され、常に周囲との競争にさらされてきた受験生は、取手校地で「受験教育」とは全く異質のさまざまな美術に出会うことになる。

取手校地で過ごす最初の一年が学生に与える影響は非常に大きい。西原は、大学に入って後、絵を描かなくなり、写真やインスタレーション作品を専ら手がけるようになったが、それには取手での若手教員との出会いが大きく影響しているという。西原は、自身が東京芸大に入学した頃の様子を次のように述べている。

西原「4月は殆どカリキュラムなくて、5月の終わりにやっと最初の講評。…やっと取手以外の教官とそこで顔合わせ。6月7月に、マッペっていうドイツの大学のシステムを授業でやる。ドイツは…今までの自分の作品ドローイングのファイルを持って行くシステムだから、油絵科でファイルを作って合否を出そうっていう再試験。そのマッペで、もう絵じゃないのも出てくるし、絵と訣別する奴が出てくる。」
筆者「1年の時点で出てくるんだ。」
西原「取手にいる教官が若い人ばかりでインスタレーション作品作ってる人たちだし、先端とか上級生とかまわりも密につながってるから、平面だけじゃない要素にそこで触れたりする。院生とかも平面じゃない。…7月に入って、こんどは先端と油画とデザインで合同カリキュラムがある。インスタレーションゼミ。それが川俣さんとか、保科さんとか、佐藤時啓さんとか。」
(インタビュー:西原篤志、東京芸術大学油画専攻四年、予備校講師)

現代美術家としての思考法や振る舞いを教育するという方針は、東京芸大の授業に端的に表れている。油画専攻では年に二度「全教官批評会」を行うが、そこで交わされる教員と学生のやり取りは示唆に富んでいる。批評は、最初に学生が2、3分「自分はなにを作りたかったか」について口頭で説明をし、それについて教授が質問をするという方法で展開される。教授の指導方針に一貫しているのは、学生が口頭で説明した「自分が何をやりたかったか」という説明と、実際の作品との間に矛盾が見られた時にそれを指摘し、「自分が本当にやりたいことをやれ」「もっと自由にやれ」と繰り返しているということだ。以下は、筆者が実際に批評会を見学した時のフィールドノートからの抜粋である。

教室の隅にテレビが設置され、学生のビデオ作品が写し出されている。白い紙の上に絵の具を撒き散らしたような写真が、次から次へと現れては消える。この作品を制作した学生は、教員に促されて自分の作品の説明を始める。
学生:「大量のドローイングを提示する方法として、自分に向いている。時間軸、視点の流れをとりこんで人に伝える。テーマは植物の繁殖をモチーフとして試した。」
教員:「パッと見、植物には見えないけど。」
学生:「はじめは植物でやっていたけど、後で自分のドローイングでやった方がいいなと思って。ドローイング原画は30枚。」
教員:「アニメはどうやって作ってるの?」
学生:「これはアニメのつもりではない。」
教員:「気持ちはそうかも知れないけど、アニメーションだよね。どういうところで発表したいの?テレビというメディアを通す以上、これを絵だと言うのには無理がある。」
学生:「絵を描いてその中に映像を入れてもいいなと思って。」
教員:「だったらそれをやらなきゃ。…コンピュータを感覚的に使うには、もっと修練が必要。やろうとしていることは、面白い。」
(フィールドノート、於・東京芸術大学美術学部、2004年5月13日の記録より)

自分がどのような作品を作りたいのか、最初の学生の説明で明らかになることは稀で、学生は教師との対話の中で自分が本当にやりたいのは何かを確認している。そして、教官は学生の意見を引き出した後に、もっと自由に自分のやりたいことをやるように、と学生に促している。

一方、東京芸大の批評会に対して、学生は次のような印象を抱いている。再び西原のインタビューを参照する。

筆者「(東京芸大の)講評は予備校とどう違う?」
西原「(大学では)まず学生がプレゼンする。コンセプトとか、何がやりたいか、とか。それに対してつっこみが入る。油絵科は他の科に比べて、ボコボコに言われる。ただ厳しいといえば厳しいけど、だんだん慣れてくると、単に的はずれな事を言ってるだけだったり、自分には関係ないなって。聞くべき人の話だけを聞いてればいい。…言われる事にどんどん無感覚になってくから、反発して次につながっていくか、どれを聞いてどれを聞かなくて良いか、とか要領が良くなっていく。…言ってる方も(学生が)55人いると疲れてくるから最後の方はいい加減だったり。」
筆者「芸大と予備校では違和感はあった?」
西原「最初は楽だなって。4月5月はただ遊んでるだけで。…学校には期待しないけど、同学年とか同世代でいろいろやってる人の影響はあったし。学校が急に緩くなったのは、焦りはなかった。学校と関係なくやってきた方が、自分としては楽だったかな。」
(インタビュー:西原篤志、東京芸術大学油画専攻四年、予備校講師)

もう一つ、学部一年生の北野に対して行ったインタビューを紹介する。

北野「そうだな。もう批評会に関しては、あ、結構適当なんだって。」
筆者「適当なの?」
北野「感想とかその人の思っている事をパッと言うくらいで、それを本気にして聞いたら、作品とか描けなくなるだろうなって。そのぐらいかな。」
(中略)
筆者「(東京芸大に)入るまではどんなイメージ持ってた?」
北野「入るまでは、もうあそこに行けば、美術の世界を本格的に学べる所なんだろうなって。多分それは誰でも思ってると思うけど。」
筆者「現場に触れられるみたいな?」
北野「そう。スタートみたいなもんだから。まして芸大だったら。そういうイメージだったけど。でも、そんな。大した事ない(笑い)。…みんなもそうだと思うけど、予備校に行くと、そこで役職ができるっていうか、すごい高い『芸大生』っていう差が出る。唯一芸大生になると、講師のバイトとか、再現(作品)とか、そういう仕事が多いわけよ。だから予備校の世界に入ると芸大の凄さが勝手に高いものとして扱われるけど、芸大のなかで、友達と話してる時は、普通の大学生。」
(インタビュー:北野剛彦、東京芸術大学油画専攻一年)

大学の教員は学生に対して「何がやりたいのか」を問いただし、「自由にやれ」、「自分のやりたいことをやれ」、と指示している。ここには一切の技術指導は含まれず、専ら学生の心構えに対する指導になっている。その心構えはまさしく「自律的創造者」たらんとする美術家の態度である。ただし、ここには矛盾がある。大学が学生を収容する枠組であり、教授がその管理者である以上、「自由にやりなさい」「好きにやりなさい」という命題はひとつの命令であり、それに従って学生が好きにやるということは取りも直さず教授の命令に従っていることになり、自由ではなくなるという論理的な矛盾を内包している。ここでは、美術大学における教育機関としての制度的な面と、理念としての自由主義との矛盾が、そのまま指導にも反映されている。そして、その矛盾は、最終的には学生自身に持ち越されることになる。

大学の指導に対する学生たちの反応はおおむね否定的である。西原は「ただ的はずれなこと言ってるだけだったり、自分には関係ない」として、学校での教育を自らの創作活動とは全く無関係なものと考えているのだが、その結果、「学校と関係なくやってきた」と、大学に反発する事が結果として大学の教育理念に「われにもあらず従うようになる」という転換が起こっている。このように、現在の東京芸大では、見かけ上の教育を放棄し、学生に自由であることを要求することで、逆説的に学生が「自律的創造者」を志向せざるを得ない条件を整えている。この点について、綿貫は次のように述べている。

「(予備校)に対する反発とか疑念とかを、(予備校の)中にいる学生だから感じてることはすごくあるんだけど、それを言える立場じゃないし、大学に受かったら言おうと思うんだけど、入ったら入ったで新しい環境で忙しいから、言わなくなるのね。予備校生こそ予備校に対する意見とか考えはすごく強い。だからそれを大学生になってから言うって、周りから見ると、前の段階のレベルの話をしてるとか、先のことを言わないから格好悪いって思われる風潮がある」
(インタビュー:綿貫健、東京芸術大学油画専攻三年、予備校講師)

このインタビューが示しているように、大学のカリキュラムは、最終的に、学生が自らの受験生としての過去を忘却という仕組みになっている。この過程によって、学生は「自律的創造者」であることを標榜する美術家=大学教授の言説を身に付けることを要求されている。経験を忘却するということは教育と創造性の矛盾を克服するための一つの手段として機能しているが、これは容易に解消されるものではない。以下のインタビューは、最初の批評会を終えた学部一年生の戸田麻美(仮称)によるものであるが、この意味で非常に示唆的である。

「受験から離れて作品を作ろうと思ったけど踏ん切りがつかない。今までやってきたのが、形を出すとか、時間内でうまく省くとかだから、自由になった時に、どこまで決めてやるのか、制約とか、やり方になっちゃうのかな。でもそれもまた表現する手段になり得るから、そういうのも持ち得ながらやってくのもいいかな」
(インタビュー:戸田麻美、東京芸術大学油画専攻一年)

この発言に見られるように、予備校の教育は決して簡単に忘却できる類のものではない。むしろ、学生一人一人が対峙して、解決しなければならないものである。



5節 まとめ

東京芸大の学生や卒業後間もない若手の美術家の多くが美術予備校で講師として働いていた。それは彼らが美術家として生計をたてるのが非常に困難だからであり、制作費を稼ぎつつ制作にかける時間も確保したい美術家にとっては、予備校の講師は手頃な職業であった。一方、本章で引用したインタビューから、東京芸大に合格した学生は、自らを創造的な芸術家として認識していることが伺われる。そして、東京芸大の仕組みがこの認識の形成に大きく影響していることが分かる。

このように、ひとりの受験生が東京芸大に合格し、再び講師として予備校に戻る過程で、芸大受験産業に対する意識が大きく変化していることに気づくだろう。当初は東京芸大に合格することを目標にし、予備校の教育を受けてきた学生は、予備校の教え込み教育に対して強い反感を抱いている。しかし東京芸大に入学後は、主として経済的な理由から再び予備校に戻り、今度は自らが次の受験生に対して教え込みを行っている。彼らが美術家として制作を続けるには何らかの収入源が必要だが、予備校で講師として働くためには、第一に東京芸大を目指す受験生が相当数存在し、第二に受験技術が教育可能でなければならない。その結果、彼らはかつて自らが陥っていた「芸大至上主義」の幻想や、予備校での個性の教え込みを、今度は次代の受験生に対して行い、かつての自らを再生産することで生活を支えなければならないという深刻な自己矛盾に陥る。本章冒頭のインタビューで、山田が講師を「できれば辞めたい」と語り、講師職を美術活動の対極に置いていた真意も、おそらくこの矛盾を自覚している点にある。

これまでに見たように、かつて東京芸大が抱えていた、制度としての美術教育と、理念としての創造性の矛盾は、予備校と東京芸大という別組織がそれぞれを負担することで、組織の上では解消されることとなる。しかし、ほとんど全ての芸大生が予備校で何年も勉強を積まなければ東京芸大に合格できないということは、先に見た矛盾は、これら双方の機関で教育を受ねばならない学生個々人に持ち越されているという事を意味している。従って、筆者がこれまで分析してきた、東京芸大と予備校の役割分担による矛盾の解消という制度は、決して十全なものではない。

3章に戻る   結論に進む



脚注

*1

例えば、『藝術新潮』1987年10月号に掲載されている菅原猛の記事「芸大出れば画家になれる?卒業生の三十年後は…」では、「芸大油画卒業生の活動状況」が紹介されている。1956年から1965年までの卒業生の足跡を調べた結果、菅原は「教師などの職を一切もたずに、絵だけで生計のたつ画家となれば、四三〇名のうち、筆者の推察するところは16名ぐらいだろう」と記述している。(『藝術新潮』38巻10号 (1987. 10)、35-39頁)

*2

東京芸大美術学部の定員240名に対し、大学院修士課程の在学者は2003年5月時点で一年次が222名、二年次が207名おり、実に8割の学生が大学院に進学している計算になる。さらに、博士後期課程の在学者も同時点で一年次が33名、二年次が26名、三年次が33名となっており、学部生の総数に対する博士課程進学者の割合も一割を超えている。(東京芸術大学『平成15年度東京藝術大学概要』)

*3

そのままプロフェッショナルの講師になる者も非常に多い。プロの講師においても東京芸大卒業生の占有率は圧倒的であり、各予備校の講師の最終学歴を調べると、その殆どが東京芸大卒あるいは修了となっている。一例として、すいどーばた美術学院の『入学案内』(2004年度版) に記載されている大卒の講師58名中、39名が東京芸大の卒業、あるいは修了生である。

*4

各予備校の2003年度版の『入学案内』より。これら入学案内では、昨年度の所属講師名を記載するのが通例となっているため、上記の数字はいずれも2002年度のものである。なお、これらの数字は各予備校の実技科の講師の人数であり、学科講師はここに含まれない。

*5

松井みどりは、予備校が学生同士の接点としても機能している事例を紹介している。「(美術雑誌『アトリエ』と共に、)立川美術学院は東京芸大内の不満分子の社会的な結びつきの場として機能していた。村上隆は立川で1983年から1989年まで教鞭を執っていたが、その間に、中村政人、廣瀬智雄、岩井重明などの東京芸大の同輩に出会い、コンテンポラリー・アートへの情熱を吹き込まれた。小沢剛も村上隆が講師をしていた頃からの知り合いで、夜毎開かれるコンテンポラリー・アートの議論に参加していた。」Matsui (2001), p. 244. (翻訳は筆者)

*6

一例として、多摩美術大学の2002年度の卒業生進路を参照すると、卒業生787名中、大学院・研究生などの進学者が93名、就職者が316名、自営業が6名、その他が224名、無業が148名となっている。(多摩美術大学『多摩美術大学二〇〇四』、105頁。)

*7

例えば、東京芸大の学部四年生の西原篤志(仮称)は、大学受験の動機に関して、インタビューで次のように語っている。
西原「(高校)に来てる予備校のパンフを見たりとか、たまたま知り合いで芸大に行った人がいたりして、その人に話を聴きに行ったりして、新美とか河合とかどばたのパンフとか見てたけど。」
筆者「じゃあ芸大は意識してなかった?」
西原「いや、芸大しかないと思ってた。」
筆者「それは何で。」
西原「芸大が一番上にあるんだから、最初っから芸大に行くしかないと思ってた。芸大は何となく周りから覚えてて、意識してからやっぱり芸大かなと」
(インタビュー:西原篤志、東京芸術大学油画専攻四年、予備校講師)

*8

教育への批判的な意見は、大学教員に限らず美術家全体にも当てはまるものである。中村政人が自費出版した『貸し画廊』『美術と教育・一九九七』『美術の教育・一九九九』『美術に教育・二〇〇四』という4冊のインタビュー集に登場する約100名の発言者は、美術教育に対してほぼ一致して否定的な見解を出している。

*9

東京芸術大学『学生部だより No. 26』(1999年)、1-2頁。

*10

「ゼロの基軸:斎藤義重を語る」『美術手帖』第25巻第371号 (1973. 9)、98頁。

*11

菅原 (1987. 10)、38頁。




「つくられる個性:東京芸大と受験産業の美術教育」荒木慎也(2005年7月10日公開)