つくられる個性:東京芸術大学と受験産業の美術教育
序論

1節 本論文の目的

美術家や美術作品について語る時にしばしば使われる「創造性」は、極めて特殊な概念である。これは芸術的天才に与えられた特別な才能であり、これの有無によって美術家と非美術家が隔てられる、美術家の本質的な能力であるとされてきた。美術家、批評家、歴史家など、プロフェッショナルとして美術に関わる者の多くがこの概念の正統性を受け入れ、美術の存在理由を美術家の天才的な創造力に求めてきた。また、創造性は芸術的天才の才能であるが故に、教育によって与える事は出来ない、創造性は教育不可能である、という思考も広く受け入れられてきた*1

しかし美術教育の世界に目を移すと、「芸術大学」「美術大学」「美術研究所」など、いわゆる美術教育機関の数が非常に多いのに驚かされる。これらの機関は「創造性の開拓」を目的に掲げ、多くの者がそこで美術の教育を受けている。これらのうち最も権威があるとされているのが「東京藝術大学」*2であり、多くの美術家がここで教育を受け、プロフェッショナルとして活躍している。東京芸大は入学試験が高倍率なことでも有名であり、毎年3月になると6,000人近い受験生が試験に挑み、各科の平均倍率はおよそ20倍に達する。そして、東京芸大の入試を突破するのに必要な技術を磨くための教育機関、「美術予備校」も全国に存在している。実のところ、現在活躍している美術家の多くが、高校生の時期から美術予備校に通い、そこで何年も研鑽を積み、東京芸大に入学し、美術家として独り立ちできるようになるまでは予備校で講師として働き、後陣の受験指導に従事してきたのである。

ここには深刻な矛盾が存在する。美術における創造性が教育不可能だとするなら、美術教育機関は何を行うための機関であるのか。創造性とは本当に教育不可能なのだろうか。多くの人を東京芸大の入試に駆り立て、あまつさえ何年も予備校で研鑽を積ませる、その原動力とは一体何であろうか。本論文では、東京芸大の入学試験と、それをとりまく美術予備校の歴史を調査し、それによって東京芸大と美術予備校が「芸大受験産業」を形成していった過程を分析する。そして、フィールドワークやインタビューなどの資料を分析することで、「創造性」と「教育」という二つの概念が芸大受験産業においてどのような役割を果たし、また芸大受験産業に関わる人々にどのような影響を与えているのかを検証する。


2節 研究対象

本論の研究対象である芸大受験産業は、これまで学問的な研究の対象とされたことがなく、この用語自体が人口に膾炙していない。また、芸大受験産業は物理的な境界線によって囲い込まれた特定の領域ではなく、一種の社会現象である。従って、芸大受験産業とは何か、また「芸大受験産業」という言葉で筆者が囲おうとしている組織や人々は誰か等をあらかじめ説明しておく必要があろう。

芸大受験産業は、文字通り東京芸大の受験に伴う産業であり、東京芸大、その受験生、そして東京芸大と受験生とをつなぐ美術予備校の三者によって形成されている。さらに、その周辺には四番目の要素として私立の美術大学が存在している*3。以下、これらを順番に見ていこう。

まず、受験産業の中心には東京芸大が存在する。美術教育機関としては唯一の国立大学法人であり、なおかつ100年以上の歴史を保有する伝統ある大学である。東京芸大の内部は音楽学部と美術学部に分かれているのだが、これらは1949年まで東京音楽学校と東京美術学校という別個の高等専門学校であり、現在でもほぼ別個の組織として存在している。本論で扱うのは造形美術における創造性と教育の問題なので、ここでは音楽学部は考察の対象から除外する。また、美術学部の内部は、絵画科日本画専攻・絵画科油画専攻・彫刻科・デザイン科・工芸科・建築科・芸術学科・先端芸術表現科の8つの科に分かれている。各科はそれぞれ別個に入学試験を行い、試験内容も全く異なっている。また、受験生は併願を認められていない。従って、受験という観点から言えば、これら8つの科は別組織であり、それぞれ別個に論じられるべきである。本論文では、これらのうち絵画科油画専攻を研究対象に選定した。その理由については本章<先行研究>の項で触れる。

油画専攻の内部構造を見ると、油画・版画・壁画・油画技法材料の4つの研究科に分かれている。芸大受験の段階ではまとめて油画専攻として入学試験を行っているため、本論文ではそれぞれの内容には触れない。ただ、同じ油画専攻内でも、研究室が上野校舎と取手校舎の二つに分かれていることはここで指摘しておきたい。油画専攻に入学した学生は、一年次を取手校地で過ごす。この点は東京芸大における教育のあり方と深く関わっており、4章で分析する。

第二に、東京芸大への入学を目指す受験生が存在する。東京芸大が発行する『入学案内』によると、2002年には全専攻を合わせた入学志願者数は6,004名、そのうち入学者数は245名との記載がある。入学者数の高校卒業年度の内訳を見ると、高校から現役で芸大に入学した者は全体の17.6%、一浪した者は26.9%、二浪した者は23.2%、三浪した者は18%、四浪以上が13.2%となっている*4。一方、志願者数のうち36.9%が現役であり、東京芸大の入試が浪人生に有利な試験であることが分かる。ちなみに今挙げた数字は東京芸大全体の数字であり、受験者数および入試倍率は専攻によって異なる。2002年度の専攻別の入試倍率を比較すると、日本画専攻が26.4倍、油画専攻が39.2倍、彫刻科が19.4倍、工芸科が13.8倍、デザイン科が35.8倍、建築科が10.8倍、先端芸術表現科が9.6倍、芸術学科が5.6倍である*5。芸大発表の入試情報の中にはデータが含まれていないため、正確な数字は分からないが、専攻ごとに合格者の現役・浪人比率は大きく異なっていると考えられる。

各氏へのインタビューを行う過程で判明したことだが、油画専攻は現役では受からないという認識が、学生にも教員にも非常に強い。また、それと同時に多くの受験生が、何年浪人しても東京芸大に入りたいと願っている。2003年に東京芸大油画専攻に合格した北野剛彦(仮称)は、入学時の印象を次のように語っている。

「結構現役がいた。2〜3人かなって思ってたけど、5人くらいいた」
(インタビュー:北野剛彦、東京芸術大学油画専攻一年)

彼は東京の美術予備校で4年間浪人しており、それだけの時間を費やした合格時の思い出を、「あの嬉しさは、独特。別だよあれ。一生忘れない」と表現している。また、予備校で2浪し、1982年に東京芸大に合格した会田輝男(仮称)に、彼が受験した1980年代の様子を聞くと次の答えが返ってきた。

「僕の時だって平均して3.8から4浪ぐらい。俺が知っているだけでも11浪ってのがいたね。毎年受験してた。だから1年生に入ってきていきなり助手と友達なんだよ。…ぼくの時は(現役合格は)1人か2人」
(インタビュー:会田輝男、東京芸術大学教員)

このように、受験生が「芸大至上主義」とも呼ぶべき高い動機付けを見せる例は、枚挙にいとまがない。ここで再度強調したいのは、筆者がインタビューを行った学生のほぼ全員が、受験生の時は東京芸大を受験することに固執していたと語っていたという事である。

第三に、これら多数の受験生が通っている美術予備校について説明する。東京芸大の入学試験に落ちた大多数の受験生は、私立の美術大学に合格していればそこに入学するか、さもなければ民間の美術予備校に通って来年度の入学試験に向けて勉強することになる。美術予備校は全国各地に存在しているが、東京芸大の合格者は、東京近郊の予備校に独占されている。比較的データが揃っている2003年度の各予備校の油画専攻合格者数を見てみると、「すいどーばた美術学院」が14名、「新宿美術学院」が11名、「立川美術学院」が8名、「鎌倉美術研究所」が3名、「湘南美術学院」が3名、「代々木ゼミナール造形学校」が3名、「河合塾美術研究所」が2名、「彩光舎美術研究所」が2名、「ふなばし美術学院」が2名となり、これら「有名予備校」だけでも定員55名中48名の合格者を輩出していることが分かる*6。また、2003年度の芸大合格者へのインタビューから、上記以外の予備校からも合格者が出ていることが判明しており、ほぼ全ての学生が何らかの形で予備校での教育を受けていると考えられる。

東京芸大の合格者数はその予備校の実力と直結して判断されるため、これら美術予備校は、一人でも多くの合格者を出そうと様々な工夫を凝らしている。こうした予備校の入試対策ないし受験技術は近年非常に高度化し、その結果、予備校に通わなければ芸大には入れないという事態が発生している。こうした事情は受験生も承知しており、毎年入試後になると、昨年度最も合格者数が多かった予備校に他予備校の受験生が移動する光景が見られる。つまり予備校は受験生を集めて東京芸大に送りこむエージェントであると共に、受験生の側に判断される存在でもあり、従って予備校間の受験生獲得競争は年々加熱している。

以上見てきた、東京芸大、受験生、そして予備校の三者が受験産業を構成する「主役」である。芸大受験産業の中心に東京芸大が存在し、周辺には大量の受験生が存在する。そして両者の中間に美術予備校が存在し、受験生を周辺から中心へと吸い上げるサイフォンの役割を果たしている。

ただし、ここで注意しておきたいのは、これら三者の境界は明確に引くことは出来ない、ということだ。確かに組織上は東京芸大と美術予備校は別個の機関だが、両者の間では常に人が移動し、様々な形でネットワークを形成している。先にも触れたように、現在では「東京芸大」にカテゴライズされる大学教員の多くは、始めは「受験生」として「予備校」に入り、「東京芸大」の学生になり、「予備校」で講師を務めた後に再び「東京芸大」の教員となっているのだ。こうした人の流れは芸大受験産業が「入学試験をめぐる大学と予備校の対立」という常識的な受験産業の図式では捉えられないことを意味している*7

最後に、第四の要素として、芸大受験産業の「脇役」である私立の美術大学についても少し触れたい*8。代々木ゼミナール造形学校が発行する『美術系大学進学資料』*9には、芸術・デザイン系の実技学科を持つ大学が4年制大学・短期大学を合わせて97校掲載されているが、受験生に人気の高い大学は東京周辺の数校に絞られている。特に多摩美術大学、武蔵野美術大学、東京造形大学は多くの受験生が東京芸大と併願する人気校であり、浪人を重ねたのち東京芸大に落ちた学生はこれらの大学に通うことが多い。2003年の油画科の試験データを見ると、多摩美術大学は1,116名が受験して168名合格、入試倍率は6.0倍、武蔵野美術大学は990名中149人が合格、倍率は6.1倍、そして東京造形大学は831名中95名合格、倍率は8.7倍となっている。東京芸大に比して受験生が少ない大きな要因として、東京の中心部から位置的に離れていること、そして私立美大がいずれも高額の授業料を課していることなどがあり、いっそう多くの学生が東京芸大を目指す傾向に拍車をかけている*10

芸大受験産業について記述する場合に、直接的な関わりはもたないにせよ、私立美大についての視点をそこに組み込む必要性がある。本論では、私立美大の関係者に対して行ったインタビューや取材データも一部利用することにした。それは第一に、受験生は私立美大との関係性の中で芸大をとらえているので、私立美大に関する言説を加えることによって、芸大に対する認識がより明確になり、第二に、私立美大もやはり高い入試倍率を記録しており、東京芸大と予備校との関係が私立美大と予備校との間にもあてはまるからである。なお、本論中で引用されるインタビューなどは、発話者がどの大学に所属しているかを明記することで、東京芸大と私立美大の問題を混同することがないよう配慮する。


3節 先行研究

本研究は、芸術における創造性の教育不可能性という問題を芸術教育機関の分析を通じて考察するものであるから、分類上は芸術社会学に属する研究となる。以下、本領域の先行研究に該当すると思われる主要文献に依拠しつつ、本論の理論的射程を説明する。

芸術の社会における意味や役割の研究は、古くから美術史学者やフランクフルト学派の社会学者らによって進められてきた*11。一連の研究は芸術社会学という学問領域を形成し、現在ではJeremy TannerのThe Sociology of Art: A Reader (2003) や、Victoria D. AlexanderのSociology of The Arts: Exploring Fine And Popular Forms (2003) のように、芸術社会学のハンドブックとも言うべき参考書まで刊行されている。この領域に属する研究のうち、芸術と教育の関係について言及したものを抽出すると、アメリカの美術市場を人類学の方法で分析したHoward S. BeckerのArt Worlds (1982) 、California Institute of the Artsの成立過程に基づいて芸術と教育制度の対立を分析したJudith E. AdlerのArists in Offices: An Ethnography of an Academic Art Scene (1979) 、20世紀アメリカの芸術動向を大学組織の制度化という観点から分析したHoward SingermanのArt Subjects: Making Artists in the American University (1999) などがある。さらに近代日本の教育制度に言及したものには、北澤憲昭の『眼の神殿:「美術」受容史ノート』(1989年)、木下直之の『美術という見世物:油絵茶屋の時代』(1993年)、佐藤道信の『〈日本美術〉誕生:近代日本の「ことば」と戦略』(1996年)などがあり、近代日本における美術概念が西洋の制度の移植によって成立したこと、それに伴い制度上の矛盾が存在することを指摘している。

これら芸術社会学の試みは、Tannerによれば、美術史学の成立と共に独自の専門領域として脱世俗化されていった「芸術」を、美術市場や美術教育の観点から分析することで、再び社会学の俎上に載せようとする試みである*12。その例としてまずあげられるのが、カント美学の崇高概念に由来する、美術に特別な価値を与え、美術家を自律的創造者として称揚する美術史言説の脱神聖化である。事実AdlerやWolffら多くの芸術社会学者は、美術市場の研究を通じて、自律した創造者としての芸術家*13という概念は18世紀から19世紀にかけてつくられた概念上の遺品であり、事実上は自律した創造者など存在し得ないと結論づけている*14。さらに、Beckerは同じく美術市場の分析を通じて、芸術作品の美的価値を決定しているのは美術家の創造性そのものではなく、それをとりまく美術批評や美術市場などの「文脈」であると定義している*15。美術家や批評家等が、自立的創造者としての美術家像をどのように考えているかについては、第四章で触れる。

ところで、前述の北澤や佐藤の研究によれば、西洋近代美術の諸概念は、多少の歪みを生じつつも日本に輸入されている*16。本論第一章で詳しく見るように、近代の美術教育を支えてきた美術家達はいずれもヨーロッパで研鑽を積んできた洋画家たちであり、当然ながら19世紀西洋の芸術概念の影響を色濃く受けている。近代日本で彼らの多くが東京美術学校(現在の東京芸大美術学部)の洋画科(現在の油画専攻)で教鞭を執り、なおかつ民間で私塾を開いていたことを鑑みれば、日本においても「創造性」という概念が教育機関を通じて広く行き渡っていったことが想像される。西洋的芸術観の体現者たる東京芸大油画専攻は、教育機関でありながら、芸術家の自律性、即ち教育不可能性を受け入れざるを得なかったのだ。

この図式は現代もさして変わっていない。近代の洋画家を国際アートフェアで活躍する現代の教授陣に、民間の私塾を現代の教授陣が働いていた美術予備校に置き換えれば、100年前の図式がそのまま当てはまることに気がつくだろう。西洋の「自律的創造者」という概念が正統な美術言説として東京芸大に輸入され、現代にまで引き継がれ、しかも東京芸大を目指して毎年多くの受験生が美術予備校で教育を受けているとすれば、芸大受験産業は近代日本美術史の歪みをそのまま継承していることになる。ここに、本論で東京芸大油画専攻の入学試験を扱う意味が発生する。即ち、我が国における西洋美術概念の輸入過程を、受験産業から遡って分析することで、美術教育の制度がどのような論理と構造によって支えられているのかが明らかになるのではないだろうか。

ここで、先行研究を渉猟する過程で気付いた点を指摘しておきたい。明治時代から昭和初期までの美術予備校については、いつ設立され、その経営者が誰であり、どのような教育を行い、どのような人材を輩出したかについて、美術史学の分野で言及が見られる。これに対し、第二次世界大戦後の歴史を扱った研究においては、美術予備校はその存在すら全く省みられていない。本論第四章で詳しく見るように、美術予備校は戦後の芸術家養成に少なからず影響力を誇っていたにもかかわらず、美術史の言説からは無視されているのである。

これは次のことを意味している。即ち、美術予備校が、自身では美術教育機関を名乗り、「美術学院」「美術研究所」などの名称を用いているにも関わらず、美術の専門家からは美術教育機関とは認識されず、そこで生み出されるものは創造性を見出すことのできない「非美術」だと考えられている、ということである。それゆえ戦後の美術予備校に関する先行研究は皆無であり、雑誌等に掲載される若干の記述を除いては、その様子をうかがい知る手だてが存在しない。この点は、本論の研究方法に関わる重要な点なので、序論の締めくくりとして論じておきたい。


4節 研究方法

本章2節で述べたように、産業内部の人の動きを追跡しないことには芸大受験産業の仕組みが理解できないこと、また直接の先行研究が存在しないことから、筆者の研究は、1)参与観察、2)当事者へのインタビュー、3)雑誌・ジャーナルなどの記事、の3つの方法から得られた情報を用いることになった。

今回の調査では、2003年3月から2004年7月迄の期間にフィールドワークを行った。本論中で言及される参与観察に基づいた資料としては、インタビューに加え、2003年の5月に都内某A予備校の授業を、2004年5月に東京芸大の授業を見学する機会を与えられたため、主にこれを使用する。

また、フィールドワークの期間中、東京芸大ないし美術予備校に所属する、あるいは所属していた人々にインタビューを行った。インタビューは対象者の許可を得た上でテープに録音した。筆者が本論文で引用するインタビューは、特に指示がない限り、これらのテープをテキスト化したものである。また、本論文で引用したインタビューの対象者は個人情報保護のため全て匿名である。

インタビューの回数は32回、対象者の数は36名である。対象者の内訳は、東京芸大の学生が11名、私立大学の学生が13名、予備校の講師・元講師が15名、東京芸大およびその他の大学・専門学校の教員が4名、予備校生が3名である*17。合計がインタビュー対象者の総数と合致しないのは、東京芸大の学生11名中予備校での講師歴1年以上の者が7名おり、さらに教員4名全員がかつて予備校の講師であったため、彼/女等を「予備校の講師・元講師」の項目に勘定しているためである。本論の主題の性質上、予備校および大学からの協力を取りづらかったため、筆者の知古であった東京芸大の学生を中心にしたインタビューとなった*18。従って対象者は20代の男女が圧倒的に多いが、匿名を条件に筆者のインタビューに個人的に応じてくれた予備校の講師・大学教員は、30歳代から80歳代までの男性となっている。

インタビューの主な質問事項は「なぜ美術系大学へ進学したか」「なぜ予備校に通ったか」「どの予備校に通い、どのような教育を受けたか」「どの大学を受験し、どの大学に合格したか」「大学ではどのような教育を受けたか」の5つであり、予備校及び大学での指導経験を持つ者には「自身がどのような教育を行ったか」についても質問した。これらインタビューの目的は、これまで文章化される機会の乏しかった美術予備校の歴史やその教育内容を知るためであり、また彼ら自身が教育を受けた/行った体験について、どのように認識しているかを知るためである。彼らが筆者に語った内容は全て彼らの個人的体験であり、またインタビュー時点から振り返った過去についての認識である。その結果、各氏のインタビュー内容には矛盾が生じ、また文献資料との矛盾が生じる事例があったが、こうした事例についてはその都度本文中で指摘し、多角的な検証を試みている。

最後に、文献資料については、戦後を代表する美術情報誌である『美術手帖』(美術出版社)および『藝術新潮』(新潮社)のバックナンバーを通読し、美術教育に言及している記事を渉猟した。また、視覚資料としては、『美術手帖』に掲載されている各美術予備校の広告資料を収集することから始め、また各美術予備校が発行している『入学案内』などの逐次刊行物を参照した。

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脚注

*1

Alexander (2003), pp. 147-149, Tanner (2003), pp. 107-109.

*2

通称は「東京芸大」ないし「芸大」。本論中の記載もこれに従う。

*3

「芸大受験産業」を更に広く解釈すれば、学生の作品発表の場としての貸し画廊・企画画廊、教育機関としての美術館、わずかながら存在する芸大受験ジャーナリズムも構成要因として解釈しうるが、東京芸大の入学試験に焦点を合わせるという本論の目的に鑑みて、これらは本論文では扱わない。

*4

東京芸術大学『大学案内』(2003年)、27頁。

*5

前掲書、26頁。

*6

以上の数字は、各予備校が発行している『入学案内』や、『入塾案内』(いずれも2003年度版。詳細は巻末の文献目録を参照)等の資料に記載されている数字である。同一受験生が複数の予備校に通っていた場合、それぞれの予備校で合格者数に計算されるため、「48名の合格者」には同一人物が複数回数えられている可能性がある。

*7

たとえば、教育研究の権威である天野郁夫は、共通一次試験の導入をめぐる「大学入試センター」と「受験産業」との「情報戦争」の様子を描写し、その結果、受験生が「無個性、無気力、夢も野心もないといわれる」「学力中心の受験体制の申し子」になっている、と記述している。天野(1986年)、152-153頁。

*8

油画専攻の入学試験に限って言えば東京芸大が「主役」で私立美大が「脇役」であることは間違いないが、他の専攻、例えばデザイン専攻においては、むしろ私立美大が「主役」となる。2003年の多摩美術大学グラフィックデザイン科の志願者数は2,038名、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン科の志願者数は1,807名となっており、同年の東京芸大デザイン科志願者数(1,328名)を大きく上回っている。この事は、受験産業全体で見た場合には、ファインアートに強い東京芸大、デザインに強い私立美大という棲み分けが行われていることを意味している。

*9

代々木ゼミナール造形学校『美術系大学進学資料』(2003年)、117-123頁。

*10

2003年の東京芸大の入学料は282,000円、年間授業料は496,000円である。以下、多摩美術大学は入学料350,000円、年間授業料は1,663,000円から1,694,000円(私立美大の授業料は専攻により若干の差がある。以下同様)。武蔵野美術大学は入学料360,000円、年間授業料1,554,500円から1,580,500円。学費は東京造形大学が最も高く、入学料は300,000円、年間授業料は1,824,000円から1,836,000円となっている。

*11

Tanner (2003), pp. 2-4.

*12

Ibid. pp. 12-22.

*13

佐々木 (1995年) は、「創造/創造性」について、次のように記述している。「人間の創造のなかにも、…ある絶対的な性格を示すものがある。そのことは芸術において顕著である。芸術が、進歩の概念に馴染まないことは、近世の新旧論争が残した認識である。人事のいっさいは時とともに古くなってゆくが、優れた芸術作品には、古びることのないところがある。これは、決して、それ以前の芸術のあり方を超えたという意味での価値によるものではない。…それが現になお新鮮さを保っているとすれば、その新鮮さ、もしくは価値は、時代的な相対性に由来するのではなく、何らかの絶対的な尺度への適合から生まれたもの、と考えられるだろう。それが具体的にいかなる尺度もしくは基準であるかは、創造を考える際の、一つの重要な論点となる。」このように、「創造」とは西洋美術思想の根幹となるものである。本論では、こうした「創造」を行いうる芸術家を便宜的に「自立的創造者」と呼ぶ。佐々木(1995年)、99頁。

*14

Adler (1975), pp. 360-362; Wolff (1981), pp.10-12.

*15

Becker (1982), p. 138.

*16

北澤 (1989年), 佐藤(1996年)、32-36頁。

*17

内訳はいずれも筆者がインタビューした時点でのものである。

*18

筆者は16歳から20歳までの間、東京芸大の油画専攻を目指す受験生であり、その後は東京芸大の芸術学科に進学していた、いわばインフォーマントの一人である。また、2001年から2004年6月までの間は、東京の美術予備校である代々木ゼミナール横浜アトリエおよび代々木ゼミナール造形学校で学科の講師として勤務もしていた。このような筆者自身の出自のため、フィールドワークおよびインタビューは自身の経歴および日常生活の延長線上に位置づけられている。




「つくられる個性:東京芸大と受験産業の美術教育」荒木慎也(2005年7月10日公開)